間歇日記

世界Aの始末書



97年3月

【3月31日(月)】
▼明日つくための嘘をいろいろ考えるも、なかなかエレガントな傑作が生まれない。おれは根が善良で正直なものだから、こうした舶来の風習にはなかなか馴染むことができないのだ。くれぐれもみなさんに注意しておきますが、明日一日は、ホームページやメーリングリストで得た情報は絶対に真に受けてはいけない。なにしろ、インターネットは、エイプリル・フールのためにあるような媒体である。英国王室ホームページのように実現してしまった嘘もあるが、たいてい嘘は嘘のままだ。だが、ちょっと考えると、普段インターネットで得ている情報が嘘でないという保証はどこにもなく、個人で発信している情報など、むしろ嘘である可能性はどちらかと言えば高い。“空っぽの洞窟”どころか、嘘だらけの媒体であることは肝に命じておかねばならないだろう。それでもおれはインターネットを使い、その多くの情報をとりあえず利用する。嘘だらけということは、それだけ実社会を忠実に反映しているということの証左であり、その点ではインターネットは信頼できるからだ。あれあれ?

【3月30日(日)】
▼今日は特別な日である。新谷のり子の『フランシーヌの場合』が正しく歌える日なのだ。だからどうしたと言われると困るのだが、朝から気がつくと歌っている。さんがーつ、さんじゅうにちのぉ――。
▼期末はなにかと忙しい。裾直しを頼んであったスーツを取りにゆく。行きのバスでどこかの中学校の野球部の一団と乗り合わせ、えらい目に会った。うるさいのなんの、本なんか読めたもんじゃない。ぼろぼろこぼしながら飲み食いはするわ、いつ息継ぎしているのかわからんほど喋るわ、バスは貸し切り状態である。運動部が礼儀正しいなどというのは嘘っぱちだ。先輩に対してだけは礼儀正しいのであろう。関わりのない外部に対しては掌を返したように無礼に振る舞うやつはサラリーマンにもたくさんいるから、偉そうなことは言えないが。

【3月29日(土)】
▼夕飯のあと、バウムクーヘンを食って、さらにわらび餅を食う。いかん。今日計ってみたら、体重が60キロを切りそうなのだ。

【3月28日(金)】
周防正行監督の『Shall we ダンス?』をテレビで観る。もうテレビ放映とは、早いなあ。知らずしらずのうちに、ダンスをSFに置き換えて観ている自分に気がつき苦笑する。がむしゃらに生きてきて、ほっとひと息ついた中年男が、ある日ふとSFが読みたくなり……なんてことは、まず起こりそうにないか。欧米では四十代〜五十代でデビューする作家だって珍しくないんだけどなあ。
 おれが思うに、日本では大人のための文化がマーケットとして成立しにくい風土がある。なぜなら、この国では、多くの大人にはほんとうの意味での趣味がないからだ。大人が「趣味です」とアンケートに書いたりするようなものは、よくよく見ると、多くは単なる仕事の延長だったりする。「あんた、ほんとうに心の底からゴルフを愛してやっているか?」と訊いてやりたいことはよくある。その結果、強力な購買力はお子様に集中し、経済が十代のお子様を中心に動いてゆく。その部分が過剰に拡大され、あたかも全文化状況を代表するかのように見えてしまう。音楽なんかその最たる分野だ。もちろん、それはまやかしにすぎないのだが、じゃあ、大人の世界に強力な文化的購買動機があるかというと、そこはすぽんと抜けているのである。たしかに、社交ダンスにかぎらず、写真にも油絵にも俳句にもちぎり絵にもドライフラワーにも折り紙にも模型にもなんだのかんだのにも、それぞれに映画にできるくらいの豊かな独自の世界があるのだろう。が、それぞれのパイがあまりに小さすぎ、新規参入してもペイしないのだ。要するに、趣味がない人が多すぎるとしか考えようがない。
『Shall we ダンス?』で役所広司が演じた四十代あたりのサラリーマンの多くは、“若いころの趣味というのは就職とともに卒業するもの”と思って育ってきている。ましてや、やってみたこともないものに四十代になってから手を染めるなどというのは、なぜか“恥ずかしいこと”と思われているようなのだ。おれたち三十代には不思議としか思えない感覚だ。好きなことを“卒業する”必要などまったくないし、やりたいことがあれば、すぐにでもやればいいではないか。「そうしていいんだよ」ということを、おじさん・おばさん層に面と向かって言ってみたのが『Shall we ダンス?』だろう。この映画があれだけ支持されたというのは、やりたいことがなくて困っている世代の心の空隙をピタリと突いたからなのだろう。おれには、主人公のサラリーマンは、ただあたりまえのことをしているようにしか見えないのだ。おそらく、周防監督にもそう見えているだろう。そして、ただあたりまえのことをしているおれたちを、自分はなにをしたいのかもわからない人々が、“おたく”という一語で括って安心しようとするのである。役所広司のサラリーマンが二十代だったとしたら、単に“社交ダンスおたく”と呼ばれているにちがいない。
 趣味なんてものは、一朝一夕にできるものではない。苦労するのが楽しいのが趣味であるからだ。趣味を仕事にしている、あるいは、仕事を趣味にしている幸福かつ不幸な人々は別として、人口の大多数を占める勤め人がほんとうの趣味を持たないかぎり、日本の文化はお子様文化に支配され続けるだろう。なぜなら、文化をビジネスにしているプロたちは、コスト意識というものがあるから、食うためにはお子様を相手にせざるを得ないからだ。それ自体は、志が低いなどと非難されるべきことではない。志で飯は食えない。むしろ、大人の消費者が「おれたち大人はこういうのが欲しいのだ」と、提供者に対して声を挙げてゆかねばならない。「最近の○○はお子様向けばかりで」というのは、なんの世界でもよく聞く台詞だが、それはお子様が悪いのではない。自分たちがなにが欲しいのかも表現できない大人の消費者が不甲斐ないだけの話である。
 もっとも、おれはいまさらおじさん・おばさんたちには期待しない。むこう十年のあいだに、心の底からの購買動機を持つ“おたく”たちが、提供者側でも消費者側でも日本経済を救ってゆくだろう。作るばかり売るばかりで、なにも欲しがる能力のない人間など、資本主義社会には不要なのだ。成熟した資本主義では、消費者にも修行が要るのである。「いちいち、あられを一個一個包装するんじぇねえ。ただ袋に詰めただけのやつをよこせ」とか「曲がってたってキュウリはキュウリじゃ、そっちが安いならおれに売れ」とか「大人向けのデザインのたまごっちを作れ」とか「日本のバカSFが読みてえ」とか「いや、堀晃の情報サイボーグを読ませろ」とか「駄作でもいいからディックの残りものを出せ」とか「小松左京が本屋にないのはけしからん」とか「ダグラス・アダムズがないのはどういうわけだ」とか「首に縄をつけてでも水見稜に書かせろ」とか、どんどん公の場所で発言してゆけばよい。企業だって伊達にホームページを出しているわけではない(伊達に出しているところもあるが)。電話では言いにくいことでも、どんどんメールを出せばよい。なにが欲しいのかも詳らかにせず、提供されているものに文句をつけるだけ、与えられるものを口を開けて待っているだけというのでは、消費者失格である。

【3月26日(水)】
▼会社の帰りに駅からタクシーに乗った。某京阪電車というのは、某駅に於いて某京阪バスとの時間合わせがむちゃくちゃで、運が悪いと三十分以上待たねばならなくなっているのだ。ふつうは歩いて帰るのだが、体調が悪く疲れていたため、腹立ちと自律神経失調でむかむかしながらタクシーを拾った。家までは初乗り金額程度だが、おれの一回の昼飯代より高い。安い本なら一冊買える。むかむかむか。家のそばまで来て、タクシーが最後の数メートルを進んだとき、メーターが630円から710円に変わった。おれはキレそうになった。以前にも同じような状況下で、710円取られたことがあったのだ。一度某京阪バスを蹴飛ばしてやらねば気がすまない。ところが、今日のタクシーの運転手氏は、千円札を出したおれに、黙って370円のおつりをくれた。気持ちがいい。男は黙って370円だ。なんでも、前に別の運転手に聞いた話では、ここらを流すタクシーの運転手は某京阪バスの悪口を客からさんざん聞かされているのだそうだ。もしも某京阪バスの関係者でこれを読んで気になる方がいたら、メールをください。どの駅か教えて差し上げますから。
▼“京都人”というのは妙な言葉である。京都府に住んでいる人全般を指してもよさそうなものなのだが、なぜか京都市内の、しかも中央のほうの、由緒正しい京都弁を駆使する人々をのみ指すかのようなニュアンスがある。おれは“京都人”という言葉で、いつも京都府民全般を指しているつもりなのだが、こっちがいくらそのつもりでも、たまに人と話が合わないこともある。綾部市民や亀岡市民は断じて“京都人”ではないかのように思っている人というのはいるのだ。おれは自分が住んでいる京都市に愛着はあるが、仮に京都市が壊滅したとしても、綾部市民や亀岡市民を“京都人”と呼び続けるだろう。彼らだって、外国人の友人には、“I live in Kyoto.”と、なにがしかの誇りを伴って言うはずであり、博多弁に比べればあきらかに京都弁としか言えない言葉を喋っている。自分たちを京都人だと意識している人が生き続け、彼らを京都人と呼び続ける人たちがいるかぎり、京都市なんて行政区画はなくなったっていっこうに差し支えない。
 え、なんの話かって? SFの話に決まってますがな。

【3月25日(火)】
▼本屋でSFマガジンを捜すも見つからない。あっ。そうだ。今月は一日出るのが遅れると塩澤編集長がおっしゃってたのを思い出す。
 で、話は突然変わるが、「おっしゃる」なんて言葉を最近あまり耳にしなくなった。おれも含めて使う人は使うのだが、圧倒的に「言われる」に取って代わられつつあるようだ。「召し上がる」「ご覧になる」となると、もっと旗色が悪い。「食べられる」「見られる」に駆逐されるのも時間の問題かもしれぬ。となると、いわゆる“ら抜き言葉”が大嫌いなおれは、はなはだ困る。いや、すでに困っているのだ。おれが可能の意味で言っているのに、尊敬と取られるのではあるまいかと気になってしかたがない。まあ、最大公約数的関西弁であれば、「言わはる」「食べはる」「見はる・見やはる」と言ってしまえばいいので実害はないが、標準語で喋ったり書いたりするときには悩んでしまう。こればっかりは世の趨勢であって、いくら少数派が“こっちが正しい”と言い張ろうが、相手に通じなくて文字どおり話にならない。「古臭い言葉遣いをする人だなあ」と思われるのはかまわないけれど、意味を誤解されてしまうとなると、場合によっては相手に合わせてゆかざるを得ない。
 そういえば、先日から読んでる Catherine Asaro Catch the Lightning(Tor, 1996)に、こんなのが出てきた――

    "I'm sorry, but I don't know to whom you refer."
    Whom? I didn't know people existed who actually used that word.

 前者は未来からやってきた兵士。体内に埋め込まれたコンピュータの支援で現代の少女と英語で会話しているわけである。「すまんが、誰(たれ)のことを言ってるのかわからないのだ」とでも、ルビ付きで訳すしかないか(笑)。後者の少女のほうは、「こんな言葉を使う人間がほんとうにいたんだわ」と、えらくたまげている。たしかに、whom なんて言葉が現代の日常会話で使われているのをおれも聞いたことがないし、見たこともない。公式文書で正確を期す必要がある場合は、まだかなり使われてはいるが。いや、笑いますけどね、おれが中学・高校生のころは、上記のサイボーグ兵士の台詞みたいなのもマジで習ったもんだし、中学生のマイクだかジェーンだかの台詞として英作文の答案に書いても丸をもらえたはずだ。おれが先生だったらバツつけるけどね。誰が喋ってるのか意識してない作文なんてのがあるものか。先生にならなくてよかった。
 ひょっとして、おれの“ら入り言葉”も、現代の若者には奇妙な言葉遣いだと思われているのかもしれない。えーえー、どうせあたしゃサイボーグ兵士ですよ。必然性がないかぎり、“ら抜き”は死んでも使わんぞ。レベルは雲泥の差だが、最近おれは丸谷才一の気持ちがものすごくわかってきた。

【3月24日(月)】
▼自分のホームページを見ながら、かう考へた。智に働けば――じゃない、つまり、タイトルページを見ただけでは、たまたま来た人にはなんのページやらわからんのではないか、と。ひょっとしてトンボやカエルで検索した人とか、“A Ray of Hope”などというタイトルをかんちがいした宗教関係の人とかが、ひょっこりアクセスしてくれないともかぎらない。やはりここは、もう少しSF筋のページだとわかりやすくしておこう――というわけで、ちょっとトップページを変えてみた。
 SFファンでも、『世界Aの報告書』(B・W・オールディス、1968)なんてのがたちまちわかる人は、かなり濃い人だと思う。サンリオ文庫だからなあ。ヌーボー・ロマン風の実験小説で、はっきり言って、翻訳が出たとき(1984)には、すでに主流文学としても完全に時代遅れだった。いま思えば、こいつをクロス・メディアで実践したのが『朝のガスパール』(筒井康隆)だと言えないこともないが、ちょっとこじつけが過ぎるかな。まあ、古本屋で発見なさったら、買っておかれるとよいと思う。当時360円のサンリオ本がいくらになっているか、想像するだに怖ろしいものがあるが。

【3月23日(日)】
▼「写ルンです」のナツメロこじつけシリーズCM、好きだなあ。ついつい「次はどうしてくれよう」と自分で考えているのに気づく。むかしの「ボキャブラ天国」みたいなもんだものな、あれって。それにしても、沢口靖子はいい味出してる。やっぱり、あの顔は根っからの東宝怪獣映画顔だ。似合って当然。「あずさ2号」のポンコツなデザインもいい。エヴァンゲリオンっぽい出撃(?)シーンも笑える。

【3月22日(土)】
養老孟司『身体の文学史』(新潮社)をついつい読みはじめたら、これが面白くてやめられない。ほかの読書が止まってしまった。あーあ。
▼おれは焼酎&バーボン党なのだが、発作的にスコッチが飲みたくなり買ってしまう。人とわいわいやりながら飲むのも悪くはないが、やっぱり酒はひとりでゆっくり飲むのがいちばんだ。量こそ飲まないが、おれは根っからの酒好きにちがいない。酒の味そのものが好きだし、さらに“酔う”という薬理効果が身体や脳に現われるのが面白いのである。中島らもによれば、こういうやつはアル中の素質が十分にあるのだそうだ。金と暇と体力が十分にあれば、おれはきっとアル中になるだろう。もっとも、その心配は死ぬまでなさそうだが。

【3月20日(木)】
▼夕食後、おはぎを三個食う。夜中にまた腹が減ってきたので、大盛りのカップ焼きそばをまた食う。おいおいと思われるだろうが、おれはなにをいつどれだけ食ってもまったく肥らないのである(これを言うと、たいていの女性はおれに羨望の眼差しを向ける)。少しは肥っておかんと災害にでも遭遇したとき生き残れぬかもしれんと思って努めて間食をするようにしてきたせいか、さしものおれも、ついこのあいだ生まれて初めて60キロに達した。喜ばしいことだ。ここらで維持しようと思う。おれは基本的に食いものに対する関心が欠落しているところがあり、そばにあれば給油でもするようにいくらでも食うが、なければないで二食くらい抜いても平気だったりするのだ。せっかく60キロになれたのだから、また痩せはじめないよう注意しなくてはならない。

【3月18日(火)】
▼先日届いた Catherine Asaro Catch the Lightning(Tor, 1996)をさっそく読みはじめる。SFマガジンのスキャナーでもご紹介した Primary Inversion の続編だ。おれはこの人、すごく買っている。くそ真面目な科学考証をやるくせに、こちらが赤面せんばかりのお約束と陳腐なストーリーをいけしゃあしゃあと繰り出す。アホなのではなく、もちろんわざとやっているのである。それでいて、どこか新しさを感じさせるものがあるのだ。どんな人だかあまり知らないのだが、パソ通とインターネットを駆使する女性物理学者で、既婚だというのはわかっている。日本で言えば、理系の学部を卒業して世間並みに結婚もしている女性が、じつはSF・耽美・パソ通と三重苦揃った隠れおたくで、物理学の知識を縦横無尽に駆使した邪な大人のおとぎ話を即売会用に書いてみたら評判がよかった――みたいなケースを想定してしまう。
 前作は二大宇宙帝国の確執を描いた、超光速航宙ありーの、テレパシーありーのという遠未来の話だったのに、続編の冒頭で度肝を抜かれた。舞台は、いきなり1987年のロサンジェルス、17歳の少女の一人称である。なんじゃ、こりゃ。サリンジャーじゃあるめーし。来るぞ来るぞと思っていると、前作のスコーリア帝国の軍人が、時と場所をわきまえず、迷子になって現われる。どわははははは。きっとこの少女、未来の異世界で宇宙戦争に巻き込まれるのだろうな。とうとう十二国まで入ってきたか(笑)。

【3月17日(月)】
▼朝、ラジオから Bangles Manic Monday が流れてくる。お若い方のためにご説明すると、これは十年くらい前に女の子バンドが歌って大ヒットした曲で、前の晩のセックス疲れで寝坊した女の子が、仕事に遅れちまうよ、飛行機でも間に合わねーよ、またけたたましい月曜日だよー、わてほんまによいわんわーとドタバタしているだけの、じつに他愛のない歌なのである。でも、月曜の朝に聴くとハマってるよなあ。切実なもんがある。
 まあ、こういうノリの軽い歌なら朝から口ずさんで駅へと急いでもよいのだが、月曜日というと、おれはどうしても Boomtown Rats I don't like Mondays を思い出してしまう。ご記憶の方もおられよう。1979年、当時16歳のブレンダ・スペンサーという少女が、サン・ディエゴの小学校でライフルを乱射、校庭を逃げ惑う子供たちと警官を殺傷するという事件があり、これを題材にしたのが I don't like Mondays で、やっぱり大ヒットしたのだ。慣れというのは怖ろしいもので、いまでこそ、ヘンなやつが理由もなくライフルを乱射してもあたりまえになってしまった感があるが、犯人が16歳の少女ということもあって、当時は世界中に衝撃が走ったものである。どうしてこんなことをしたのかという取り調べに対して、犯人の少女は「月曜日が嫌いだから」とカミュの小説みたいなことを言う。世間を当惑させたその名台詞が、曲のタイトルになっている。またまたお若い方のためにご説明すると、この Boomtown Rats のリーダーが、のちに史上最大のチャリティー・コンサート「ライヴ・エイド」を企画して、エリザベス女王からナイトの称号を賜った Sir Bob Geldof である。
 このブレンダ・スペンサー事件の怖いところは、「月曜日が嫌いだから」という無差別殺人の理由が、われわれ正常な精神の持ち主にも、そこはかとなくわかるような気がする点である。きっと、みんなそう思ったので、あれほど世間は慌てふためいたにちがいない。いまの日本で青少年がひょいひょい持ち出せるようなところにライフルが置いてあったら、まずまちがいなく第二、第三のブレンダ・スペンサーが現われるだろう。さまざまな理由で月曜日が死ぬほど嫌いな子供があちこちにいるらしいからだ。太閤はんに感謝せにゃならん。
 じつは、Boomtown Rats ばかりでなく、あのフィリップ・K・ディックも、ブレンダ・スペンサーの事件に作品の中でちらと触れている。『模造記憶』(浅倉久志他訳、新潮文庫)所収の「不思議な死の記憶」(深町眞理子訳)をご参照いただきたい。ああ、よかった、なんとかSFの話に持っていけた(笑)。
▼ちょっとコマーシャル。明日18日に創刊されるSF情報専門のオンラインマガジン 「SFオンライン」で、「SFマガジンを読もう」という連載をはじめた。早川書房とはなんの関係もなく(一応、仁義は切ってあるけれど)、一方的にSFマガジンを応援してしまおうという企画である。具体的には、掲載された小説のご紹介と寸評だ。あくまで応援であって宣伝ではない。「つまらないものはつまらないと言う」のが編集部の確固たる方針である。おれの連載はかなり初心者向けに書いているので、ここを読んでくださっているような方々にはもの足りないかもしれない。もちろん、おれみたいな木っ端ライターだけじゃなく、錚々たるライター・イラストレータ陣が、小説・映画・ゲーム・アニメ等々およそSFに関することならなんでも紹介している盛り沢山のWEBマガジンだから、初心者から通を自認する方までご堪能いただけるはずである。なにとぞご贔屓にお願いいたします。

【3月16日(日)】
▼エッセイ「迷子から二番目の真実」をひさしぶりに書く。NIFTY-Serveで連載していたころは、緩やかとはいえ一応ノルマがあったから、毎回絞り出すようにして書いていたのだが、手前の気分次第で書くようになるとたちまち怠惰になる。ありがたいことに少数ながらファンもいらっしゃるようなので、月に一本は書きたいなあとは思っているのだが。
 今回は、あちこちでいろいろ議論されているクローン人間について戯れ言を垂れてみた。ご興味のある方はご笑覧ください。

【3月15日(土)】
Dangerous Visions から、注文していた本が届く。UPSって速いけど高いねえ。先方の担当者が変わったせいか、送り状にペンネームだけしか書いてないので驚いた。宅急便の兄ちゃんも首を傾げていた。たまたまおれが家にいたからよかったものの、母しかいなければわからないところだ。おれのペンネームなど、母は知らない(教えてるのだが、憶えないのである)し、第一、英語だから読めない。先方の顧客データベースには本名が登録してあり、いままで本名で届いていたのだが。たしかに、西洋人にはペンネームのほうが憶えやすいにちがいない。メールでも、いつも“Hi, Ray!”だもんな。以後、気をつけてもらうようメールしておかねば。

【3月14日(金)】
▼動燃の話の続きである。昨日紹介した「原子力・不拡散情報」のカウンタがどうなっているか見に行ってみると、昨日はなかったリンクが張ってある。「詳細は動燃事業団ホームページのニュースを参照して下さい。(http://www.pnc.go.jp/news/news.html)」とあるのだ。おいおい、待てよ、動燃(動力炉・核燃料開発事業団)(http://ifrm.glocom.ac.jp/ifrm/ptn.pnc.hp.j.html)というのは、動燃のホームページとちゃうんかいな? とりあえず、(http://www.pnc.go.jp/news/news.html)へ行ってみると、そこにはもうひとつ動燃のホームページがあった。なるほど、こちらのURLはインターネット・ウォッチにも載っている。プレスリリース用のURLらしい。つまり、動力炉・核燃料開発事業団のホームページには、動燃(動力炉・核燃料開発事業団)と、動力炉・核燃料開発事業団とのふたつがあるというわけである。
 前者には、「動燃:動力炉・核燃料開発事業団 〜核不拡散対策室〜 ようこそ!動燃ホームページへ! 皆さんに動燃の活動、核をめぐる世界の動向などを紹介していきます」と書いてあり、後者にも、「動力炉核燃料開発事業団 核不拡散と動燃 核不拡散対策室ホームページにようこそ」というコーナーがある。なにがなんだかわからない。前者は古いホームページで、後者があとから本格的に開設した公式ページなのかとも思ったが、だとすれば前者は更新が止まっているか閉鎖されているはずである。前者にも新しいニュースが載っているのだ。念のため、ODINで“動燃”をキーワードに検索してみると、やっぱりふたつ以上出てくる。はてはてはて? おれは頭が悪いので、よくわからん。
 おれも相当ネットサーフィンしているほうだから、企業ホームページを見れば、その会社の広報体制のよしあしが大まかにはわかるつもりだ。広報のよしあしというのは、つまるところ、その組織内部の情報が迅速かつ的確に一元化されているかということにかかっている。なぜなら、組織の名を背負って外部に情報を流す公式窓口が複数あり、しかも、それらからの情報が食いちがっていたのでは、民間の営利企業であればどえらいことだからだ。上場企業なら株価にすら影響を及ぼす。なにより、組織の社会的信用に関わる問題だ。
 どうも、ホームページひとつ追いかけても、動燃という組織は内部の情報の流れすらコントロールできない状態にあるのではないかと勘繰りたくなる。

【3月13日(木)】
動燃(動力炉・核燃料開発事業団)ってのは、バカだね、ほんとに。そう、ホームページも一応あるのだ。Yahoo! Japan で検索すると、驚いたことに「動燃」ではヒットしない。試しに「動力炉」でサーチするとようやく出てくるのだ。暇な人は見に行ってみてはいかがだろうか。今回の事故に関しても、ちゃんと「号外:動燃・東海村情報」として経過が発表されてはいるのだが、トップページをちょっと見ただけではわからない。「原子力・不拡散情報」とかいう、わけのわからないホットテキストをクリックすると、おずおずと「号外」が出てくるんである。ど阿呆。ホームページひとつ見ても、この団体の性格がよーくわかる。こういうときは、トップページでこういうふうに

「号外:動燃・東海村情報」
とやるものだ。
 さらに、そこにアクセスして驚いた。なんと、カウンタが[27]だったのである。壊れてるんじゃないかと思ってリロードしてみたら、ちゃんとカウントアップされた。
 これだけ騒がれてる団体が当の事故をみずから説明しているページのカウンタが[27]などというのは、どういうことだ? 念のため30分ほどして再びリロードしてみたが、おれがさっき見てから二人しかアクセスしていない。ネットサーファーが一斉にサイバースペースに繰り出す23時すぎの話である。
 要するに、動燃というのは、「こいつらが発表することは、見に行くだけ無駄だ」と多くの人に思われているのであろう。ガイガー・カウンタの次に、この「号外:動燃・東海村情報」のカウンタの数字を動燃は重く見るべきだ。大いに赤面してもらいたい。「先週生まれたわが家の王女様です。かわいいでしょ?」などと猿みたいな赤ん坊の写真が貼ってあるだけのページだって、動燃が発表することよりは人々の興味を引くであろう。
 あまりにアクセスが少ないため、あなたがこれを読んで見に行くころにはカウンタが取り外されているかもしれない。でも、おれは見たぞー!

【3月11日(火)】
齋藤冬樹さんとおっしゃる方から、リンクを張らせてほしいとのメールをいただく。齋藤さんはご自分の名前がとても気に入っていて、あちこちの「冬樹さん」を集めたリンク集「冬樹な方々」を作るのだとのこと。齋藤さんのページに行ってみると、東京大学気候システム研究センターなどというものものしいところにいらっしゃるわりには、どうでもいいようなくだらないことがやたら気になる人らしい。「最近気になること、あるいは気になっていたこと」というコーナーは、なんだかおれみたいなノリで、はなはだ親近感を覚える。おれの「迷子から二番目の真実」を気に入ってくださったとのことで、さもあらむとぞ思ふ。そういえば、たしか全国の我孫子さんを集めているという人もいたなあ。意外なことで繋がりができるから、インターネットというやつは面白い。

【3月10日(月)】
▼雨が降る。いったい、人はいつごろから傘の首を逆手に把んで歩くようになったのだろう。傘をスキーのストックのようにうしろに振り出しては、背後に立つ者に無意識に攻撃を加えるゴルゴ13みたいなやつが多い。とっても多い。駅の人ごみなんぞ、危なっかしくて歩いていられない。おれはと言えば、傘を順手に構えて、フェンシングの要領で前を歩く敵の突きを受け流すのだった。

【3月9日(日)】
▼そろそろスーツを買いに行こうかと思っていたが、しんどいのと忙しいのとでやめ。本を読んだり、原稿書いたりして過ごす。東野司『電脳祈祷師美帆 邪雷顕現』(学習研究社)をちょっと読む。文体もあとがきも、夢枕獏の九十九乱蔵シリーズを意識しているのはあきらか。むしろそう言われれば大いにけっこうだくらいに割り切って、読者層を絞り込んだ感じである。どういうわけか「歴史群像新書」というのに入っている。いろいろ事情があったのだろう。

【3月8日(土)】
▼SFマガジン4月号を熟読して過ごす。なぜ熟読しなきゃならんのかというと、えーと、それは3月18日以降の日記でお話しすることにいたしましょう。
 それにしても、谷甲州の連載「エリコ」って、いいタイトルだよね。これは、「マサコ」でも「キコ」でも「ショーコ」でも「ヨシコ」でも「クミコ」でも「サチ」でも「ケーノジョー」でもしっくり来ないわけで(これらの名前は断じて無作為抽出です)、この作品の主人公のような女性(元男性なのだが)は“エリコ”以外の何者でもないと思わせるものがある。他人に伝授不可能なこのあたりのセンスは、作家にとっても読者にとっても、存外に重要だと思う。薔薇は、ほかの名で呼ぶとよい香りはしないかもしれないのだよ、ジュリエット。

【3月7日(金)】
▼「かっぱえびせん」のマヨネーズ味というのを食ってみる。けっこういける。袋に書いてあるには、「私はマヨネーズをつけて食べる」というファンレター(なんて出すやついるのかよ、ほんとに)から生まれた製品なのだそうだ。最近、なんでもかんでもマヨネーズをつけて食うのが流行ってるみたいなのだが(おれも好きだけど)、なにか人々の味覚に影響を及ぼすような環境要因の変化でもあるのだろうか?

【3月6日(木)】
▼クローニングについて、にわかにマスコミが騒ぎはじめたけれど、なにやら徒に邪悪なイメージを与えようとしているかのような取り上げかたには反発を感じる。バチカンが不快感を表明するのは、いまのところ当然かつ正当なことだが(これだって、ガリレオが草葉の陰でどう思うかは知らない)、クリントン大統領の対応を額面どおりに受け取ってはならないと思う。なぜなら、ことは国家の安全保障にも関わる問題であり、アメリカ大統領ともあろうものが、昨日や今日の思いつきでものを言っているとは思えないからだ。
 いずれ霊長類のクローニングが行なわれるだろうことは、自明だったはずである。ウランの核分裂で連鎖反応が引き起こせることを知りながら、まさか核兵器なんてものが出現するとは夢にも思わない政治家などいるわけがない。ましてや科学者であれば、一般相対論が出現した時点で――クローニングの場合なら、DNAの構造が解明された時点で――やがて時間の問題で直面するであろう事態を想像してみたことすらない者などいないだろう。もしいたら、そいつはただの科学技術職人であって、科学者じゃない。“未来予測”をする必要などまったくない、SF作家という人々ですら、その程度の想像はしてきた。
 今回の実験成果を耳にしたアメリカ合衆国大統領が、「おお、世の中には、そういう研究や技術があるのか。これはよい勉強をした。どえらいことであるな」などと、あわてて専門家に諮問しているのだとしたら、それではまるで日本である。そうとはとても思えないのだ。だって、そうでしょう? 優れた生得的形質を持つ学者や芸術家や兵士や運動選手を人為的に複製できる可能性すら考えられるのである。倫理コードのまったく異なる仮想敵国がそうした技術を実用化したらどうするのだ。これが安全保障と国威の掲揚に関わる問題でなくて、なんであろうか? 倫理的問題は倫理的問題として切り離し、別途、安全保障上の問題として研究していなかったはずがない――とおれは思うのだがどうか。
 クリントン大統領が実際に要請しているのは、あくまでモラトリアムであって、大統領としての倫理的判断を国民に示したわけではない。ここぞというタイミングを見計らって、すばやく世間の不安を代弁するような声明を出し、「さすが、大統領」と、多くはキリスト教徒の有権者の信頼を得るのが目的であろう。おれには、プラグマティストたらねばならぬ政治家の口から spirituality などという言葉が出ると、戦術的媚びにしか聞こえない。

【3月5日(水)】
▼以前この日記にも登場した巡回貸本屋だが、病気で長期入院するため休業するとの知らせが、昨夜本人の声で留守録に入っていた。今日の夕方電話してみると、退院後は仕事が続けられるかどうかわからないという。じつは、おれの爺さんであっても不思議はないくらいのご老体なのである。今の世に巡回貸本屋の後継ぎなどいるわけがない。入院前に配達する本は回収に行けないからもらってくれていいし、今月の会費は要らないとまで言うのだ。どうやら、余人が口を挟むような事態ではなくなっているらしい。口を挟もうにも、帰って来られないと思っているにちがいない、そして、事実そうなのかもしれない老人に向かって、「お疲れさま」とも「さようなら」とも言えたものではない。客として平静を装って、いつ再開するのかといったことを明日の天気の話でもするように訊き、最後に「お大事に」と電話を切る。これでいいのだ。

【3月4日(火)】
▼このところ読んでいた Steve Perry The Trinity Vector(Ace)を投げ出す。派手なドンパチとコケおどしのガチャ文が続くばかり。あとの半分で奇跡的に面白くなるのかもしれないが、おれはこういうのは苦手だ。各章の頭にいちいち名著の引用が入っているのも、おれの好みじゃない。西洋人って、妙にこういう書きかたする人多いよね。西洋人にかぎったことじゃないが、まるで自分が知っていることを全部ぶちこまなきゃならないと思っているかのような書きかたというのがある。誰曰く彼曰く、これに曰くあれに曰くというやつだ。伝統を踏まえるということと知識(の断片)をひけらかすということを混同している。要するに、品がない。いかにも品のある文体で書かれた品のない文章というのはあるものだ。
 もっとも、こういう小説を好む読者というのもいて、彼らが本を読んで言うことは決まっている――「ああ、ひとつ賢くなった」 そう、どうやら、彼らは賢くなるために小説を読んでいるらしいのだ。とんでもない了見ちがいである。この手の読者を騙すのはわけないにちがいない。賢くなったことがはっきりするようなディテールを、そこここにばらまいておけばよいのだ。そうしたサービスもたしかに必要ではあろうが、それが目的であるかのような小説は読む気にもならない。そんなものを読む時間があったら、これ見よがしに引用されている原典か学術書を読んだほうがずっといい。人生は短いのだ。

【3月3日(月)】
▼NECのリリースを読んでいて大笑い。高画質の42型ワイドプラズマテレビを発売したというのだが、商品名が「プラズマX」。どわははははははは。いやあ、NECもずいぶん洒落っ気が出てきたもんだ。ネーミングした人を愛してしまうな。『パタリロ!』の愛読者にちがいない。企画会議で冗談まじりに言ったところ、「おお、それはいい」なんてことになってどんどん話が進んでしまい、出典を説明する機会を逸したんだったりして……。まさか。
CNN Interactiveが報じるところによると、3月2日に打ち上げ25周年を数えた探査機パイオニア10号の動力は、すでに意味のある観測ができないほどに弱まっているのだという。しかも、96億kmの彼方から9時間15分かけて故郷に届くパイオニアの8ワットの声は、1兆分の1ワット以下に減衰してしまうのだそうだ。そろそろ引退というわけである。
 パイオニア10号には思い出がある。同年輩の科学少年はみなそうだろう。どの雑誌にも、異星の知的生命宛てのメッセージを記したあの金属板の絵が載っていたものだ。小学生のおれはわくわくした。いつの日か異星人があれを解読するであろう想像にもわくわくしたが、こんなマンガみたいなことを考えてほんとうに実行してしまう立派な大人がいるということに、いっそうわくわくしたのだ。こんなすごい国に日本はほんとうに竹槍で立ち向かったのかと、素直に呆れた。科学力もすごいが、それ以上に、関西弁で言う“アホ”な夢を諦めないところがすごい。
 日本SFの第一世代〜第二世代作家たちが、SFを蔑視や偏見なしに受け止めてくれるおれたちに向けて、その若い才能を子供雑誌に注いでくれていた時代でもあった。SFという言葉を意識せずとも、「ああ、あのとき読んだあれはSFだったのだ」と思い起こす同世代の人も多いことだろう。おれたちの世代は、科学にもSFにも、こういう洗礼を受けているのだ。
 むかしを懐かしんでばかりいては爺いの繰り言になるのでやめるが、その科学少年がブンガク青年になりSF中年になるまでのあいだも、パイオニア10号はずっと飛び続けていたのである。ご苦労さま、パイオニア10号! 太陽系を初めて脱出した人工物という栄誉は、永遠に君のものだ。
 いつの日か、異星人が君を回収するというのはなかなかいいシナリオだが、おれはもっと素敵な想像をしたりするのだよ。遠い未来、宇宙のどこかで、ほかならぬ地球人が、君と再びめぐり合うかもしれないのだ。そのころ、どういうものがSFと呼ばれているだろうね? それを想像すると、まだまだおれはわくわくするのだよ。

【3月2日(日)】
▼ふと思い出して、Yahoo! Japan に登録内容の変更依頼を出す。前から気になってはいたのだが、おれの肩書きが“評論家”になってるのだ。そんな大それたものになった憶えはない。それに、マスコミの世界ではちゃんとした職業だが、ふつうサラリーマンの世界で“評論家”といえば、犬以下の蔑称なのだ。サラリーマンの方はご存じだろうが、“自分の手を汚さず、他人のやったことにはごちゃごちゃ文句をつける輩”の意である。
 Yahoo!は、こちらが登録しようとするページをいちいちちゃんと見て、コメントを人間が編集し手入力するのが売りである。すごい労力だ。肩書きを考えてる暇などなかろうから、こっちが精一杯おこがましく“レヴュアー”と申請してるのに、「こいつはどうやらたまに雑誌にものを書いたりするらしく、麗々しくペンネームまでついてるから、評論家にしておけ」ということになったのだろう。あのねー、筒井康隆の『俗物図鑑』じゃないんだから。まあ、俗物であることは否定しないけれども……。あそこで検索したら、“吐瀉物評論家”なんてのがほんとに出てきたりするんじゃないかと不安なので、まだ実験はしていない。いっそ、堺三保さんみたいに“おたく”という肩書きにでもしようか。いや、それもなんだかおこがましい。おれは“おたく”を名のるにはあまりに淡白である。堺さんの現在の肩書きはたしか“SFなんでも屋”だが、おれはあんなに藝達者でも博覧強記でもない。結局、“書評家”で手を打ったのだが、これもすげーおこがましい。一家をなすほどの藝風を以てして、初めて“家”と名のれるんだろうからなあ。英語の気楽さが羨ましくなる。少なくとも、言葉の上では達人とヒヨッコの区別がない。猫踏んじゃったしか弾けなくても pianist、ホロヴィッツでも中村紘子でも pianist である。
 以前、ファミリー・レストランの貼り紙に「ディッシュ・ウォッシャー募集」とあって目を剥いたことがある。皿洗いと言わんか、皿洗いと。待てよ。“皿洗い”というのは、“歌うたい”とか“もの書き”とかと同じで、自分で言うぶんにはいいが、他人が言っては失礼な表現なのだろうか。ううむ、日本語は難しい。
▼早川書房にレジュメを電子メール入稿。気に入った作品はつい売り込みたくなってレジュメが長くなってしまうのがおれの悪い癖である。海の向こうの見知らぬ作家を売り込んだところで、それがおれの得になるわけでもないのだが、まるで自分が書いたもののように肩入れしたくなる。いかんなあ。平常心、平常心。

【3月1日(土)】
▼暇なとき読もうと買ってきた『ファンダメンタル』(内田春菊、新潮文庫)をつい読みはじめたら面白くてやめられず、全部読んでしまう。月曜入稿予定のレジュメがあるというのに、なにが“暇なとき”だ。マンガというのは怖い。
 おれにとって内田春菊は、是が非でもフォローしようと心に決めているわけではないのに、いつのまにか本が増えてゆくというタイプの作家である。「新刊は金のあるときには買うことが多い作家」とか「文庫になったら必ず買う作家」とか「そのときほかにいいものがなければ安全牌として買う作家」とか、本好きな人は作家の扱いを自分なりにぼんやりと決めているものだ。けっして厳格な義務を自分に課しているわけではない。ところが本好きが昂じてくると、「この作家はとにかく読まなきゃ」といった義務感、使命感みたいなものが次第に纏わりつきはじめ、いつしか“一般人”の本との関わりかたを忘れてしまうのじゃないかと怖れることがある。「音楽は仕事にするもんじゃない。疲れを癒そうと聴く曲でも、気がつくと仕事の耳で聴いている」という話がある。本も同じかもしれない。あなたは、ふつーの人はどういう動機で本を買うものなのか、頭で分析しないとわからないということはありませんか? それが実感としてわからなくなったら、本というものを見る目が歪んできているのだ。多くの人にとって、本とは本であって、それ以上でもそれ以下でもない。にわかに信じ難いことではあるが、本がなくても生きていける人は大多数らしい。おれが文字を読みはじめるまで、わが家には電話帳以外の本はなかったのである。初めて自分の意志で買ってもらった本は、『鉄人28号』の絵本だった。三つ子の魂なんとやら。
 閑話休題(って、全部閑話なのだが)。そういう意味で、ある作家の本が“いつのまにか増えてゆく”というのは、おれの理想とする本との関わりかたである。内田春菊作品のような自然体でつきあえる存在は、おれにとっては大切なものなのだ。




冬樹 蛉にメールを出す

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