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大暴風(上・下)
(ジョン・バーンズ著、中原尚哉訳、ハヤカワ文庫SF、1996年、各720円、ISBN4-15-011168-5, -011169-3)
ストレートな邦題は損をするという見本である。たしかに、『日本沈没』とか『首都消失』とか、直球勝負のパニックものは簡潔なタイトルにする伝統でもあるのか知らないが、SF読み以外は名前も知らない海外作家の作品なのだから、ハッタリでもいいからいま少し思わせぶりなタイトルにしてほしかった。表紙にはなにやら台風みたいなもののイラストが上下巻とも描いてあり、しかもタイトルが『大暴風』では、ふつうの人は「おっ、『軌道通信』のバーンズの新刊か。これは面白そうだ」とは思わない。「ああ、台風が吹くパニックものなんだろう。なあんだ」と思うのである。
で、そう思って読んでいない人、あなたは大損をしている。なるほど、常軌を逸したエネルギーを持つ無数のハリケーンが大暴れして人類が絶滅の危機に瀕する話なのではあるが、じつはハリケーンなんぞはちっとも読みどころではないのだ。未曾有の自然災害に対処する近未来電子ネットワーク社会の描きかたにこそ、バーンズのストーリーテリングの才が光る。
電子ネットワーク云々と来ればサイバーパンクのお家芸というイメージがあるが、サイバーパンクは必然的にリアリズム文学に発展解消してしまいかねない要素を当初から含んでいた。というか、もともとサイバーパンクは、人間が作り出した技術に人間が作り返されるさまを、人間性の解体を辞さないところまで追求した思弁的リアリズムにほかならないのだ。そして、それは同時に、サイバーパンクから“SFの華”の部分がやがて失われてゆくだろうことを意味していた。九十年代ともなれば、電子ネットワーク社会それ自体をいかにリアルに描いたところで、まさにそれはリアリズムにしかならない(昨今のギブスンを見よ)。もはや“古びた未来”になってしまった電子ネットワーク社会は、『大暴風』のような古典的手法のエンタテインメントの中でこそ、いま一度、“SFの華”を取り戻すべき時期に来ているのではないか。
そういう意味で、『大暴風』はバーンズ流の『ネットの中の島々』とも言うべき作品である。しかしバーンズは、思想が先に立つスターリングとちがい、基本的には武骨な作風を持ちながらも、“SFの華”がガチャガチャした得体の知れないいかがわしさに原点を持つことをおそらく身体で知っている。エコロジー、マスコミ論、性風俗、政争、VR、ウィルス/エージェント、AI、進化等々々、小説としての完成度を少しく犠牲にするまでに現代的な小テーマやガジェットをぶち込んでいるのも、バーンズに小説がわかっていないせいではない。彼は、小説がわかっている以上に、SFがわかっているのだろう。
かといって、とにかく駄菓子じみた表層的なガジェットをぶち込んだだけの作品は、SFの原点を具えているやもしれないが、必ずしもSFではない(むろん、小説がすべてSFである必要などないのだが)。ジョン・バーンズというSF作家は、原SFの持つ粗野なエネルギーを十分意識しながらも、どこから見てもSFとしか言いようがない作品を書くことをあえて選んでいるようだ。その稀有なバランス感覚が彼を地味な存在に見せているのだとしたら、ちょっと残念なことではある。
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