――猛毒の希望を突きつける問題作
冬樹 蛉
厭なものを読んでしまった。褒めているのだ。恩田陸の『月の裏側』は、激しい嫌悪と抑えがたい憧憬とが、胸のあたりで同時に膨れ上がってくるような小説である。
もともと“個”としての意識を持っている知的生物が、連結/合体/融合して“集合意識”を持つアイディアは、SFファンにはおなじみのものだ。SFは西洋人の発明であるせいだろうか、そうした集合意識は、“個”の尊厳に対立するもの、多様性のダイナミズムの前に滅ぼされるものとして描かれることが、かつては多かったように思う。ところが昨今、人類が“ひとつ”に融け合ってしまうのを、必ずしも否定的には描かない作品が増えてきている。正直、最初はまたかと思わないでもなかったが、本書の歯応えは尋常ではない。世紀末の和製『ブラッド・ミュージック』とでも呼ぶべき問題作と言えよう。
西欧的なロゴスの支配としての近代化を表層に貼りつけてきただけの日本がその裡に封じ込めた闇を、『東亰異聞』で小野不由美は、水の表象に溶かして妖しく描いてみせたものだ。同じく本書でも、“個”を持つ人類とは決定的に異質なそれ(ウェブ版註:傍点を太字で代替)は、水の姿で足元からやってくる。だが、舞台となる街を複雑に縫う掘割の水は、“ひとつ”でありながら多様性のダイナミズムと対立しないなにものかの象徴として、あくまでのどかに、懐かしく全篇を流れ続けるのである。“象徴を論理的に組み上げる”としか言いようのない、恩田陸の特異な才能には舌を巻く。ファンタジイのように象徴を繰り出し、SFのようにそれらを組み上げる。いわゆる“文化のパラドックス”の埒外に生きているような不思議な男といい、分離・過渡・再統合をきちんと踏む“ある種のイニシエーション”といい、本書には文化人類学的解釈を容易に誘うイメージが横溢しているのだが、そこにあざとい企みは感じられず、むしろ必然として普遍的なものを独自に再発明しているようですらある。
すさまじい毒を孕んだ小説だ。それが希望に見えてしまうほどの、いや、事実希望であっても差し支えないほどの毒である。隠されているがゆえに月の裏側からは目を背けられないとじつは知っているわれわれは、茫然と立ちすくむしかないだろう。
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