『ソドムの林檎』(野阿梓、早川書房、2001年、1800円+税、4-15-208367-0)



――観念の官能小説作家・野阿梓の新境地

冬樹 蛉


 いまさらのように言うのもなんだが、野阿梓は、支配と被支配のエロスに憑かれた作家である。性愛も暴力も組織も国家も、彼の世界ではそのエロスが見せる異なる相にすぎない。いや、現実の世界でもそれはそうなのだが、野阿はSFの方法を用いることで、性愛と暴力と組織と国家とを、相互が相互のメタファーとして妖しく際立つ図式に投げ込み、グロテスクなまでに蠱惑的なエロスを薫り立たせる。あたかも“エレベータの思考実験”のように、重力と加速度ならぬ、性愛=暴力=組織=国家の等価原理を悪意とも憧れともつかぬものを込めて描き出し、現実に対するテロルを仕掛けてくる。そのエロスの一般相対論では、艶めかしく変転する支配−被支配の共犯関係や鏡像関係までもが統一記述され、人類がしばしば手綱を取り損ねてきた、危険であるがゆえに淫靡な“力”が――人殺しの道具が持つどうしようもない美のようなものが――官能を直撃してくる。そう、官能である。野阿はイデオロギーを扱う作家だが、イデオロギッシュな作家なのではない。きわめて抽象的なレベルでの官能小説作家なのである。
 「ブレイン・キッズ」では、残留思念による幻覚を爆発的に〈海賊放送〉として放つ時限装置を作ることのできる少年を抱き込んだテロリストたちに、その心霊兵器がバックファイアする。霊能という得体の知れない“力”を支配しようとする者たちは、容易に被支配の奈落に転落してゆく。その危うい“力”を狂言回しに、冷徹かつ強靭な女テロリストとひよわな少年――過剰と欠落を抱えた精神の異形者たちは静かに淫らに共闘するのだ。「夜舞」は、われわれが昭和の終わりに体験したあの忘れ難い“夜の日々”を、過剰に抽象的な王権をめぐる不気味でエロチックな祭祀として浮き彫りにしてみせる。そして、『バベルの薫り』の前日譚である表題作「ソドムの林檎」は、一見、野阿らしからぬほどに通俗的な衣を纏った痛快活劇だが、爛れた街を舞台にめまぐるしく乱反射する支配−被支配の交歓は、野阿が大衆エンタテインメント的サービスに向かえば向かうほど、いっそう抽象的なエロスとなって襲いかかってくる。これぞ野阿梓であり、また、野阿梓の新境地でもあろう。支配−被支配の二項対立が融け崩れるそのとき、まぐわい乱れる“観念”の褥に、読者よ、欲情せよ。

[SFマガジン・2001年11月号「SFブックスコープ 今月の CROSS REVIEW」]




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