『太陽の簒奪者』(野尻抱介、ハヤカワSFシリーズ Jコレクション、2002年、1500円+税、4-15-208411-1)



――“もの”との遭遇

冬樹 蛉


 ファーストコンタクトSFの極北には、スタニスラフ・レムの『天の声』という旗が翻っている。そこにはこう書いてあるのだ――「ここから先はないよ」と。『天の声』を以て、ファーストコンタクトSFは、ある意味で、終わっている。科学的方法論の限界、人間の知性が認識するという営為の限界を、不可知であるかどうかすら不可知のなにものかとのコンタクトで真正面から突きつけられてしまったのでは、レミドドソ〜と唄う声にも力が入らない。が、“ある意味で”終わっていると断るのは、『天の声』以降も、ファーストコンタクトSFの可能性がいささかでも減じたわけではないからである。ゲーデルのせいで数学が終わったのではなかろう。ラザフォードの言うように、物理学以外の科学はみな“切手集め”にすぎないだろうか?
 『天の声』の罪つくりなところは、ファーストコンタクトをやたら哲学的に考えさせすぎる点である。もう、どうしようもなく異質な知性と出会わないと、なにやら申しわけないような気になってしまうのだ。つられて頭でっかちになる。透徹した思索から驚異を生み出すレムの天才は、裏返せば彼の最大の欠点でもあるだろう。
 『太陽の簒奪者』で、野尻抱介は天才が立てた旗の威光にひるまずレムに立ち向かい、ファーストコンタクトSFが健在であることを堂々と示した。“考える作家”を野尻がさほど怖れない理由は、単純明快である。それは、彼が“まず、ものを作ってみる作家”だからだ。「われわれと異質な知性は、どんなものであり得るか?」という思索から入るのではない。半田の焼ける臭いがするこの作家は、「とにかく目の前に問答無用で“もの”が存在するとして、いったいこんなものを作るやつらは、なにをどんなふうに考えて作るのか?」と発想する。常に“もの”が先なのだ。いかに異質な知性が相手であろうと、そこに“作られたもの”があれば、ものを作るというただ一点において、少なくとも共通点が見出せるのである。ものを作る営みに感情移入して読めば、『太陽の簒奪者』には、プロットの運びからエピソードやディテールの端々にいたるまで、そうした野尻哲学、いや、野尻工法が見かけ以上に周到に活かされているのに気づくはずだ。それこそが野尻抱介の真骨頂であり、彼がアーサー・C・クラークの子であることの揺るぎない証明である。

[SFマガジン・2002年7月号「SFブックスコープ 今月の CROSS REVIEW」]




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