『ダスト』(チャールズ・ペレグリーノ著、白石朗訳、ソニー・マガジンズ、1998年、1800円+税、ISBN4-7897-1330-X)



――おぼえていますか? 世界が滅ぶ醍醐味を

                                  冬樹 蛉

 最近のSFは世界が滅びなくてつまらんとお嘆きの方は、存外に多いのではないかと思う。“SFとは、つまるところ、極言すれば「一冊ごとに一回」世界がほろびる物語”と中島梓はかつて喝破したものだが(『道化師と神 SF論序説』早川書房)、このところ世界は久しく真面目に滅びていなかったような気がする。いつしかわれわれは世界がすでに何度も終わったつもりになり、斬新な設定を得るためだけに破滅後の世界を舞台にしたような物語に慣れっこになってしまっていたのではなかろうか。
 またもや“いわゆるひとつのバイオSF”かと、ハードカバー六百頁を超える大冊を前に腰が引けたことは否定しない。が、読み進むうち、とても懐かしいものを感じはじめた。チャールズ・ペレグリーノの『ダスト』は、世界がちゃんと滅びていたころのSF、日本がぶくぶくと海に沈んで行ったころのSFの感触を、すれっからしになってしまったわれわれに思い出させてくれる。そうだ、すっかり忘れていた。世界はこれから滅ぶんじゃないか! 名人の大工は楔を一本抜くだけでたちまちバラバラになる家が作れるなどという話があるが、まさにその“世界の臍”たる楔の場所の意外性と、瓦が落ち柱が折れ鴨居が弾け跳ぶドミノ倒しの快感(!)こそが、破滅SFの醍醐味だ。ホロコーストSFなんて気障なものではない。三村美衣風のレトリックに倣えば、れっきとしたただの破滅SF(註:ホームページ版では、傍点を太字で代替)の快作である。
 ペレグリーノが本書で最初の楔を抜くために導入している自然科学上の仮説にはいささか無理があると思わないでもないが、その詳細があえてぼかされているところから、本書は壮大な思考実験として提示されていることが察せられよう。ひとたび楔が抜けたあとの展開は十分に論理的で、書き割りのように類型的な登場人物と多少の御都合主義という欠点はあるものの、不信を停止している暇もないスピーディーな展開はそれを補って余りある。
 こんなふうに言うと、SFを「小説として甘やかしている」と解釈なさる向きもあるようだ。ちがうのだ。SFにしか描けないもの(本書を読めばおわかりになるだろう)が描かれていれば、その点は正当に評価すべきなのである。私小説に宇宙人が出てこないと嘆いてもはじまらない。出てきたっていいんだけどね。

[SFマガジン・99年2月号「SFブックスコープ 今月の CROSS REVIEW」]




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