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聖岩 Holy Rock
(日野啓三著、中央公論社、1995年、1600円、ISBN4-12-002502-0)

 待ってました。静かで過激な幻視リアリスト、日野啓三の最新短編集です。'92年から'95年に発表された短編が八編が収録されています。一昨年に出た長編『台風の眼』(新潮社)が、主に日野啓三・三十五歳までの記憶を描いたものであるのに対して、本書は四十歳以降の体験をベースにした短編で構成されています。

 日野啓三は取り立ててSFの方法論を用いるわけではなく、いっそ私小説作家ですらあるのですが、その不思議な作品群が日常の皮膜を突き破って見はるかす地平には、この宇宙の中の人間・この宇宙と対峙する人間という、SFの原点に流れる大文字の問いが常に冷厳と浮かんでいます。ベトナムの戦火を見つめながら、高層ビルの谷間から空を見上げながら、夕暮れの埋立地をうろつきながら、アパートの一室に差し込む夕陽に息を呑みながら、韓国の荒野に中国の砂漠にオーストラリアの大平原に佇み、バイキングやボイジャーが送ってきた映像のレーザーディスクに徹夜で見入りながら――日野啓三は、内と外に同時に開かれた視点で“現実の総体”を透視しようとします。自分の心臓の鼓動が、宇宙的な時空の把握にそのまま繋がっている。日常のなにげない風景が、大宇宙の生滅流転にパン・フォーカスで被さっている。なのに、SFの技法をほとんど用いていない。ジェイムズ・ティプトリー・Jr.が到達しかつ表現し得た“巨視的視野と生理感覚の統一”(鳥居定夫)を、主流文学方向からのアプローチで同じく成し遂げている稀有な作家と言えましょう。

 さて、本短編集の圧巻は、やはり表題作「聖岩」でしょう。オーストラリアのエアーズ・ロックを訪れた体験を描いたものですが、単なる旅行記を超えた一編のSFと呼べるものに仕上がっています。


(略)われわれの伝統的自然感覚がどれほど繊細で緻密で陰影が微妙だとしても、この大きすぎる単純苛烈な風景の中では、忽ち気化するようにさえ思われるのだ。この自然は人間の思い入れや共感を、冷然と黙殺して微動だにしない。いわゆる人間的なものの入りこむ余地がない。その巨大な硬質の沈黙。
(『聖岩 HOLY ROCK』p.37「聖岩」 改行位置変更)

「自然との共存」などという言葉を安易にわれわれは口にするけれど、自然は人間など微塵も必要としていないのだ、ということが痛切にわかる。それはただ存在するのだ。意味も目的もなく、見られることも理解されることも賞讃されることも愛されることさえも、必要とすることなく。
(p.37 改行位置変更、傍点を太字で代替)



 こうした認識は、SFファンにとってはなじみのものでしょうし、また、ここで日野啓三が感じていることが痛切に“わかる”人でなければ、そもそもSFなどに興味を持ったりはしないことでしょう。

 アデレードでタクシー運転手に案内された小高い丘の上で、作中の語り手である日野啓三は、すでに深夜に近い時間であるにもかかわらず、街中の灯火がつけ放しであることに驚きます。運転手はそのことを少しも不自然に感じていないようなのですが。


(略)夜更けても明りを消さない、いや消すことができないこの街自身の心理、というより生理がわかったと思った。この街の自己照明はそのまわりの、さらにその果ての、この荒地の、この大平原の荒涼たる闇に対する自己証明なのだ。明りを消せば、周囲の広大な闇が忽ち人間の都市を呑みこむだろう。自然が文明の営みを覆いつくすだろう。ぞっとするほど恐ろしいことで、涙がにじむほど健気なことだった。
(p.34 改行位置変更)



 私は即座にあるSFの一場面を連想しました。人類にとっての最外宇宙基地で、宇宙飛行士が電波望遠鏡のパラボラの内側に回りこんでみるシーンです。


(だが、この静かさは何だろう……)
しばらく闇の中を漂ううち、マキタは不意に思い当った。
――この空間は、人類にかかわるすべての電波から遮蔽されている。
(中 略)
<マルドゥク基地>は人類にとっての最外基地に当る。(中略)その基地を背にし、反射鏡の凹面内部の空間に身を置けば、もう背後からの電波はいっさい入らない。
(中 略)
マキタは不思議な感慨を覚えた。
この瞬間、人類のすべてから切り離されて銀河と、宇宙と対面しているのだった。
(中 略)
(いったい、この向うの空間に、誰もが、何を求めようとしているのか……)
(堀晃『バビロニア・ウェーブ』, 徳間書店, p.161〜162
改行位置変更、傍点を太字で代替)



 二人の作家が、オーストラリアの丘の上で、太陽から三光日離れた基地で見ているのは、きっと同じものなのでしょう。そしてそれは、ただ怠惰な日常が“古びた未来”や“なじみの異世界”に垂れ流されただけの物語には見つけることのできない、なんと根源的に“SFなるもの”であることでしょう。
 SFが小手先の技法でも文体でもましてやガジェットでもなく、ものの見かたであるとまだ私は信じていますし、そのエッセンスが継承され、再生産されてゆくかぎりは、マーケットとしての“えすえふ”が消滅してしまってもいっこうに差し支えないとすら私は考えています。
 日野啓三のような人が“えすえふ”の外側にも存在していてくれることが、逆説的ではありますが、私がSFを読み続けていられる理由のひとつです。
 若い読者の方々に、とくにお薦めしたい作家です。

[95年11月12日、97年11月24日 一部改稿・整形]


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