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耽美なわしらI 黒百合お姉様VS.白薔薇兄貴
(森奈津子著、角川書店・ASUKAノベルズ、1996年、660円、ISBN4-04-701308-0)

 逞しいゲイの大学生作家・矢野俊彦が恋しているのは、愛原ちさとのペンネームで耽美少女小説を書いている美貌だが支離滅裂な性格の青年・相原千里。ところが、相原は男にも女にも興味がなく、矢野は苦しい胸のうちを打ち明けられず、悶々としつつもひたすら相原を崇拝していた。
 矢野の出入りする、売れっ子マンガ家でバイセクシュアルの志木昴先生の仕事場には、なぜか妙な連中が集まってくる。そのひとり、戦闘的な毒舌を武器とするレズビアンのギャグマンガ家・田中サイコ(本名:彩子)は、志木とは仲が悪いものの、彼のアシスタント・林美穂(これもバイセクシュアル)とは、怪しい“姉妹関係”を結んでいる。そのくせ、バイセクシュアルの美穂をあまり信用してはおらず、ゲイの矢野には戦友じみた親近感を持っているらしいのだった。その彩子が愛原ちさとの小説の大ファンだと知って、矢野は気が気でない。愛原/相原と知り合いだなどとばれたら、紹介しろを迫られるに決まっている。繊細な(と矢野は思っている)相原には、彩子のような過激な女を近づけたくないのだ。ところが、出版社のパーティーでこの怪しげな連中が一堂に会する羽目になる――。

 一読、オスカー・ワイルドのコメディーを連想した。ウェル・メイド・プレイの基礎を押さえているのだ。押さえているのだが、そのウェル・メイド性をほかならぬウェル・メイド性を以て茶化す姿勢があり、これはワイルドが『真面目が肝要』The Importance of Being Ernest などでやったことに通じる。
 なにかを茶化すには、対象とするジャンルに定石やマンネリズムがなくてはならない。ワイルドの時代には、ウェル・メイド・プレイこそが茶化され対象としてのエスタブリッシュメントたり得たのだが、現代に於いては、エスタブリッシュメントの求心力は、どのジャンルでもかなり衰えている。茶化すに足るフォーミュラに忠実な古き良き(かどうかは知らないが)エスタブリッシュメントの影が薄いのだ(この点の指摘のみに関しては、梅原克文氏は正しい)。
 森奈津子が『耽美なわしら』で見抜いたのは、耽美・やおいは、すでに特殊なエスタブリッシュメントだという点だったのだろう。“特殊なエスタブリッシュメント”というのは語義矛盾のようだが、そうとしか言いようのないものが現代にはけっこう存在している。本来のエスタブリッシュメントとは、恒星のようなものだ。誰が見てもそれとわかる巨大な存在で、こちらから求めなくても遍くあたりを照らしている。それに対して、私がここで言う“特殊なエスタブリッシュメント”とはブラックホールのようなものだ。目立たないが、注意しているとその影響力が大きく周辺に及んでいることがわかる。しかも、ひとたび近づくと、その密度や周辺の重力勾配は恒星を凌ぎ、人はよくそこに“ハマる”(笑)。やおいなどは、もともとエスタブリッシュメントの陵辱に端を発する分野のはずだが、見ようによってはそれはすでに“特殊なエスタブリッシュメント”であって、さらなる陵辱の対象となるわけだ。森奈津子はそれをやったのだろう。私はそれほど読んでいるわけではないけれど、耽美・やおいは、かなり強固なフォーミュラがいまだに存在するジャンルであるらしい。そういうものを見ると無性に茶化したくなるのは、SF者の血である。『耽美なわしら』はまったくSFではないのに、なんとなくSF的なものを感じるのは、そのあたりの茶化し根性が共振するからだろう。

 読後に振り返ると、本書はまだ人間関係を引っ掻きまわしているだけで、事件の面白みには欠けるのだが、逆に言えば、大事件が起こらないにも関わらずこれだけ読ませるのは大したものである。不思議な文体だ。マンガの呼吸なのだが、マンガでできることを文字でコピーしているような凡庸なものではない。その証拠に、本書の文章にはさほど擬音が見当たらないのだ。文章でしかできないことを、マンガの呼吸でやっているのである。軽いタッチのその裏では、文章表現による“笑い”を相当研究しているのにちがいない。かんべむさしの後継者が思わぬところにいたものだ。


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