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知識人の生態
(西部邁著、PHP新書、1996年、680円、ISBN4-569-55365-6)

 意味不明のままなんとなく納得しているばかりか、つい自分でも使っている言葉というのがいくつかあって、私にとって“知識人”というのはそのひとつである。知識で飯を食っているのが知識人だというなら、およそあらゆる職業人を含んでしまう。でも、いかに実用的な即効性のある知識を有していたとしても、そこいらのサラリーマンをあまり知識人とは言わない。一方、いかに役に立ちそうにない知識の持ち主でも、どこかの大学の教授だとかいうことになれば、人は彼なり彼女なりを知識人と呼ぶ。
 私は知識人の定義などべつに曖昧にしておいてもかまわないのだが、誰もが知識人と認め、またみずからも知識人たらんとしている者にとっては、これは大問題である。手前の存在基盤に関わることだ。そこで西部邁は、知識人というもののありようを真摯に考察する。
 いつものようにオルテガを援用しての彼の考察によれば、知識人は三種類に峻別される。真正の知識人であるインテレクチュアル、専門的知識をツールとして操るインテリジェント、持てる知識を過剰な政治的コミットメントに注ぐインテリゲンチャである。そして、知識の意味自体を問うか否かという一点において、インテレクチュアルは後二者と画然と隔てられるのだという。かかるインテレクチュアルの営為は、現世利益の構造が安定しているかぎりにおいては有害ですらあり、インテレクチュアルはそのことにも自覚を持っている。すなわち、治に於けるインテレクチュアルは一種の不可触賤民であって、だからこそ乱に於いて超越的な存在となり、新たな事態に対して共同体の精神を開眼させる祭司たり得るというわけだ。なるほど、文化人類学的にもよくわかる主張である。要するに、真正の知識人と似非知識人を分かつものは、知識の量などではなく、“知”に対する己の存在の構えであるということであろう。
 そこから西部は、現代はインテリジェントやインテリゲンチャが分を踏み外して幅を利かせている時代であり、その中でインテレクチュアルたることは絶望的に困難なことだと導いてしまう。当然、かくいう西部はインテレクチュアルたらんとしているわけだから、その論調には絶望感が強く漂う。が、乱に於ける祭司たるインテレクチュアルの存在意義を信じる彼の言葉からは、虚無が語られながらも、なにがしかの楽観のようなものが感じられるのである。虚無とは裏腹な、そのいわく言い難い達観こそが、私が西部邁に違和感を感じる点なのだ。私はニヒリストなのだろうな、やっぱり。
 そう感じつつも、西部邁という存在を無視し切れないのは、みずから論理的に導き出した絶望に一矢でも報いようとするベクトルに、一種、憎めない頑固親父に対するような敬意を抱くからである。ともすれば、インテレクチュアルの滅びの美学に心地よく飲み込まれてもゆけよう認識を抱いてしまいながら、ぎりぎりのところで踏み留まろうとするスタンスは、共感しないまでも立派だと感じるからである。結局私は、無自覚な流れに対して、自覚的に「ちょっと待てよ」と言う人が好きなのだろう。それは、SFがやってきたことでもあるからだ。


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