『星の彼方には闇』 The Dark beyond the Stars (Tor, 1991)
フランク・M・ロビンスン Frank M. Robinson
いまさら世代宇宙船(ルビ:ジェネレーション・シップ)なのである。しかも、十四万八千光年彼方の中性子星に美少女アンドロイドの映画を撮りに行くなどというハイカラな目的があるわけではなく、あくまで地球外生命の発見がその崇高な使命なのだという。ついでに警告しておくと、この作品、ペーパーバック四百ページあまりの長丁場だというのに、ほとんど全篇、宇宙船内が舞台である。やたら唾液腺のゆるい宇宙人が大挙して襲ってくることもなければ、全裸の美女が精気を吸い取りにもこない。ところが、どうしたことか面白いのですよ、これが。
物語は、一人称の語り手がとある惑星上で瀕死の重症を負い、見知らぬ地球人の探査パーティーに運よく救出されるところからはじまる。事故以前の記憶をすべて失い、自分が何者かすらわからない語り手が連れてゆかれたのは、地球外生命を発見すべく宇宙をさまよう世代船アストロン。「御都合主義だなあ」と憮然としていると、やがてこの男は、もともとアストロンの乗組員である十七歳の技師スパロウだと判明する。なるほど、以下、自分が何者かを再学習してゆく過程を、嵐の山荘に招かれた探偵よろしくこの男が語れば、世代宇宙船にまつわるすべてを不自然にならずに描写することができるわけだ。サスペンスも維持できる。閉鎖状況における語り手の問題をクリアしたということで、ここでちょっと襟を正す。
さて、なぜか不死身の船長クサカは、出発時から二千年以上もアストロンの指揮を執っているカリスマ的絶対権力者である。いまだ生命の片鱗も見つけられないでいるのだが、彼の不撓不屈の執念は微塵も揺らぐことがない(こういう男が日本人名なのには苦笑しますけどね)。そんなクサカに心酔しかかっているスパロウに、冷静な科学者ノアをリーダーとするクーデター・グループが接触してくる。彼らの分析によると、地球外生命の存在確率は絶望的に低く、また、アストロンの老朽化はもはや限界近くにまで来ており、地球に戻るのはいましかない。というのは、これからクサカは、二千年間の無駄骨をものともせず、一切の補給が利かない“闇”の宙域を突っ切って次なる星系へ向かおうとしているのだ。
クーデター・グループとクサカとの板挟みになって揺れるスパロウ。だが、邪魔者を次々と血祭りに上げてゆくクサカの非人間的なやりくちに憤激した彼は、ついに先頭に立って叛旗を翻す。クサカに直結された操船機能を奪取せんとするクーデター・グループ。クサカの取り巻きたちの反撃。クサカとスパロウとの、端末を介した手に汗握る死闘――!!
……とまあ、こうしてご紹介していても照れ臭くなってくるほど、どこかで見たような設定がこれでもかこれでもかと出てくるのである。気になるスパロウの正体にしても、世代宇宙船というものが“空飛ぶダイアスパー”として構想されているはずだと気づけば、さほど驚きのあるものではない。また、クサカの“一見、本来の指令に矛盾しているかのような”不可解な機械的執念も、あまりにも有名なアレであろうかと思い当たるはずだ。そう、ソレでほぼ正解です。
これはもう、わざとやっているとしか思えない。映画『タワーリング・インフェルノ』の原作の片方をトマス・N・スコーシアと共に書いたこのベテランは、思いきり伝統的かつ制約の多い設定をみずからに課し、職人の技を自信たっぷりに見せつけているのである。凡庸なレビュアーがあらすじを紹介しようとでもしなければ、これほど過剰に陳腐な設定だと気づかないほど楽しめる、したたかな作品なのだ。
さらに、「キャラクターとシチュエーションだけで引っ張る、ただ面白いだけの小説か」などと憎まれ口のひとつも叩きたくなるスレた読者にも(手前のことなのだが)、最後の最後に肉の厚いストレートなSF的感動が用意されている。地味で頑固そうな寿司屋に黙ってうまい玉子焼きを出されたような読後感だ。上トロや赤貝に食傷気味の読者に、ぜひお薦めしたい一品である。
[SFマガジン・96年3月号]