私は神を持たない。私のハードウェアは純然たる機械だし、意識や感情といったソフトウェアも、物理的基盤の上を走る生化学的なプログラム以外のなにものでもないと確信している。そして、宇宙がわれわれの与り知らぬ理由で(あるいは、なんの理由もなく)このような精妙なものを生み出したこと、また、その素材が風や海や星となんの変わりもないことに、私は謙虚な驚異の想いと醒めた不条理をただただ感じるだけである。人間が機械なのであれば文学は終わると言う人もいる。だが、冗談ではない。人間は事実ここまで来て、ここにいるのだ。これからの文学が、いま、この地点からこそはじまらなくてどうするというのだろう。
そこで、リンダ・ナガタの登場である。ハワイ在住の主婦作家で、ローカス誌をはじめ各方面で絶賛された The Bohr Maker は、処女長編にして九五年のネビュラ賞予選にまでノミネートされた。本書は長編第ニ弾、現在最も注目される新人のひとりだ。
舞台は二一世紀初頭。主人公キャサリン(ケイティ)・キシダの夫トマス(トム)は、ヘリコプター事故で瀕死の重症を負う。夫の絶望的容態を宣告されたケイティは、以前しぶるトムを説得して夫婦で契約した人体冷凍保存(ルビ:クライオニクス)の専門請負会社に連絡、トムの冷凍保存手続きを即座に開始する。クライオニクスについては、本誌九五年七月号のチャールズ・プラットのエッセイ「フリーズ! ぼくが人体冷凍保存を決意するまで」(ホームページ版註:大森望訳)に詳しいので、ぜひご参照いただきたい。クライオニクス請負会社も、すでに実在する。人体冷凍保存自体はSFの世界では古典的にすぎるアイディアだが、ナノテクノロジーの基礎研究やその究極のヴィジョン――ナノマシンによる分子の加工――が一般の話題にものぼる昨今、蘇生段階での技術が急速に現実味を帯びてきたという事情があるのだ。
さて、トムの冷凍保存に家族や友人たちのほとんどは猛反対。担当医師も不快感を顕わにする。クライオニクスは、まだまだ一般にはいかがわしいカルトまがいのものとしか認知されてはいないのだ。さらに厄介なことに、ケイティも敬愛するトムの姉アイリーンは、「富める少数者への高度医療よりも貧しい多数者への通常医療を」という政策を強硬に推進して一目置かれる米国上院議員なのだった。上院議員の義妹の行動は、国家とマスコミと世論を巻き込んだ一大社会論争に火を点ける。こともあろうに親戚からクライオニクスの実行者を出したアイリーンは政治的に苦境に立たされ、ケイティとも次第に敵対するようになってゆく。
やがて、有能で頑ななアイリーンの政治力によって、クライオニクスはもちろん、巨大科学への多額投資を規制しようとする勢力が台頭しはじめる。進歩に疲弊したかのように荒廃してゆくばかりの地球。アメリカとて例外ではなく、破綻した経済や廃棄物汚染に苦しむ貧民は街に溢れかえっている。一方、この苦境を乗り切るためにこそ、ナノテクをはじめとする科学研究を推進すべきだとする勢力も、あたかも反作用のように力をつけてゆく。さらに、ひたすら暴力的なばかりのラッダイト組織までが登場し、冷凍中のトムをあくまで守り切ろうとするケイティは、個人の力を超えた社会の力学によって翻弄されつつも逞しく老いていった。三十年後、ついに死体の蘇生や人間の若返りをも可能にするナノテクが秘密裏に完成される。社会との闘いで満身創痍のケイティは、治療キットを手にアンデス山中に隠したトムの冷凍カプセルへと向かい、二番目の夫グレゴリーや、いまや科学者となった娘の助けを借りて、とうとうトムの蘇生に成功するのだが……。
本書は、けっして流行のナノテクを追っただけの作品ではない。今日われわれが抱えている“個と種の実存”に関わるおよそすべての問題を、深く静かに網羅した野心作である。冷凍保存はともかく、死体の蘇生など現実にはまだ遠い話だろう。しかし、アポロは結局月まで行ったのだ。本書が迫ってくる人間というものの“再定義”――否、“定義”への思索が、早きにすぎるなどということはありえない。そしてじつは、あのサイバーパンクの正体こそ、“すでに起こった未来”のリアリズム以外のなにものでもないのである。
[SFマガジン・96年7月号]
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