『アイスヘンジ』 Icehenge (Ace, 1984)
   キム・スタンリー・ロビンスン Kim Stanley Robinson



 SFに予知能力者なる連中が出てくるたび、子供のころは素朴に憧れたものだ。だが、馬齢を重ねるにつれ、人間には予知能力はおろか、過去を認識する能力すらないのではあるまいかと思えてきた。アウシュヴィッツで南京で、ヒロシマやナガサキでほんとうはなにがあったかはおろか、エイズ研究班だのTBSだのがいったいなにをどうしたのか、三日前の夕餉の味噌汁の具はなんだったか、つい最近のことですら、わからないことだらけである。結局、人間というやつは、未来は皆目わからず、過去も曖昧にしかわからず、現在のことすら意味をあとづけしないとわからないという、哀しい生きものなのだろう。
 さて、今回ご紹介するのは、キム・スタンリー・ロビンスンの第二長篇である。八○年と八ニ年にそれぞれ発表された中篇に書き下ろし一篇を加えたオムニバス形式の作品だが、不自然さは微塵も感じられない。じつはこの作品、本誌八五年十二月号のスキャナーで大野万紀氏が当時の新刊として紹介なさっているが、十年以上を経たいま、昨今のロビンスン熱を機会に見直してみようと、異例の再登場となった次第である。
 第一章「エマ・ワイル 2248年」は、火星を統治する“委員会”の圧政に抗した市民武装蜂起事件を描く。バイオスフィア設計の第一人者であるエマ・ワイルは、若き日の恋人ダヴィドフを首謀者とする叛乱グループの宇宙船に拉致され、船の生命維持システムを恒星間航宙用に再設計させられる。アステロイド採掘労働者として搾取される彼らは、近く計画されている武装蜂起の混乱に乗じ、小さな船で星々へ旅立とうとしているのだ。革命に懐疑的なワイルだったが、なんとか八十年間は機能する閉鎖生態系を組み上げる。ワイルの解放とほぼ同時に火星の主要都市で叛乱軍が一斉蜂起、いったんは委員会を脅かすも、やがて形勢は逆転する。いまや目覚めて叛乱に加わったワイルは、委員会の追手を逃れて小さな車で荒野に乗り出すのだった。
 第二章「ジャルマー・ニーダーランド 2547年」は、前章の事件を研究する三百十歳の考古学者の物語である。すでに人類は超長寿となっているため、彼は自分の少年時代の研究をしているのだ。委員会の静かな圧政が依然続く火星では、三百年前の蜂起は突発的な叛乱だとする解釈が“史実”とされている。御用学者同然の身の上で自己嫌悪に悩みながらも、彼はかの事件が組織的な市民の蜂起であったという説に執着する。ある日彼は、オリンポス山でエマ・ワイルが逃走に使ったと思しき車と、叛乱の背景が詳細に記された日誌を発見し狂喜する。折りしも、人類が初めて到達したはずの冥王星上で、環状を成して屹立する氷のモニュメントが発見され、太陽系は大騒ぎとなる。アイスヘンジと名づけられたそのあきらかな人工物には、「彼方へ」と梵字で記されており、2・2・4・8を示す引っ掻き傷までついていたのだ。ダヴィドフたちは実在したのか!? 諸説紛々の中、物証と整合性を具えたニーダーランド説は徐々に浸透してゆく――が、第三章「エドモンド・ドーヤ 2610年」では、独学で学者はだしの見識を培ったニーダーランドの孫ドーヤが、ネットワーク上の膨大なデータを地道に比較検討するだけの方法で、祖父の学説を根底から覆しうる驚くべき解釈にたどりつくのだ。しかし、ドーヤの説も……。
 本書に流れるものは、歴史の不確定性である。“不確実性”ではない。情報の不足で史実が判然としないのではなく、あたかも物理学上の不確定性原理のごとく、人間には過去というものが“原理的にわからない”のではないかという思弁を導く奇妙な作品なのだ。思えば、世界の決定可能性と不確定性との葛藤は、次作の『永遠なる天空の調』でも、より直裁的に展開されることになるし、処女長編の『荒れた岸辺』も、事実と記録と解釈の織りなす歴史の虚構性が隠し味になっていた。本書は“認識という営為の限界”を真っ向から扱った点ではスタニスワフ・レムの『天の声』にも迫るものを持っているが、やや緩慢なストーリー展開が謎解きの緊張感にからくも救われている憾みは残る。完成度から言えば、『荒れた岸辺』より評価されて然るべき作品だろう。ロビンスンの原点を知るうえで、いま一度埃を払う価値は十分にあるはずだ。

[SFマガジン・96年9月号]




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