『沈みゆく塔』 Drowning Towers (Avon, 1987)
   ジョージ・ターナー George Turner



 SFは人間を描かなくてよいというのは、誤解を怖れない主張としては正しい。めくるめくアイディアの洪水、日常に頽落した認識や価値観を揺さぶる衝撃的なヴィジョン、手に汗握るストーリー展開――こうした“SFの華”をくっきりと描き出すには、登場人物たちはむしろ類型的であっても差し支えはない。いわゆる、キャラクターで引っ張る作品にしても、けっして人間を描いているわけではなく、類型的なキャラをいかに魅力的に類型たらしめるかで勝負しているわけだ。だが、極度に非日常的な世界を描けるSFだからこそ、そこでラディカルに変容した人間を描くこともできよう。人間を描くということは、必ずしも感情移入しやすい身近な人物像を描くこととは一致しない。それどころか、冷徹な外挿が導き出す変容した人間像は、しばしば感情移入を拒む。しかしながら彼らは、類型でないがゆえ最もありそうな存在として、読者の日常にまでつきまとってくるのだ。現実を揺さぶるオプションのひとつとして“人間を描く”のであれば、それは優れてSFの仕事と言えるだろう。
 今回ご紹介する作品は、オーストラリアSF界の大御所ジョージ・ターナーの、きわめて地味な近未来SFである。Drowning Towers は米題で、八七年に The Sea and Summer の英題を冠して Faber and Faber から出版されている。翌年、オーストラリアから史上初のネビュラ賞にノミネートされ、惜しくもネビュラは逃したものの、同年アーサー・C・クラーク賞に輝いた作品だ(全然売れなかったそうなのだが……)。
 時は二一世紀中葉、温室効果による海面の上昇で海岸線の主要都市は水没し、人口増加で世界経済は破綻寸前。人類は、人口の一割しかいない有職階級“スウィート”と、残りの慢性的失業者階級“スウィル”とに分裂していた。スウィルたちは、もはや彼らを支えきれぬ政府の援助にすがりつつ、下層階が水没した高層ビルに鼠のように棲みつき、ひとつ、またひとつと住居が海に呑み込まれてゆく恐怖に脅えて暮らしている。
 物語の軸となるのは、テディとフランシスのコンウェイ兄弟。彼らの一家はスウィートとして静かに暮らしていたが、ある日失業した父親が自殺、無力な母親もろともたちまちスウィル階級に転落する。スウィルの居住区に転居した彼らを待っていたのは、体系的な教育を受けてはいないが聡明なコヴァックスという自警集団の頭目だった。彼の庇護なくしては、男手のない元スウィートの一家などたちまち略奪の餌食になってしまう。しぶしぶコヴァックスの世話になるコンウェイ一家だったが、次第に家庭内は冷えてゆく。驚異的な暗算能力を持つ弟フランシスは、コヴァックスの援助でスウィート階級に才能を売り込み、スウィルの生活を激しく嫌悪してついに家を出る。一方、特殊な才能はないものの秀才である兄テディは、スウィルの選良に高等教育を施す制度に救い上げられ、スウィートとスウィルの橋渡しをする人材に育てられる。逞しい青年に育ったテディは、エリート工作部隊員としてスウィルの居住区をパトロールするうち、ウイルスを用いた怖るべきスウィル断種計画を探り当て愕然とするのだった――。平易な中に格調高い文章で、厚みのある人物像を淡々と彫り上げる手腕はすばらしい。けっして形だけの文学ごっこをしているのではなく、SF流に“人間が描けて”いるのである。
 ターナーは一九一六年生まれ。豪州の今日泊亜蘭といったお歳だが、創作に評論に、SFに主流文学に、いまだ衰えを知らぬ健筆を揮っている。子供のころからSF好きだったが、もともと主流文学作家としてスタートした彼は、この作品で世界のSF界に認められた。面白いのは、オーストラリアのSF界には、彼を“ブンガクの人”として外様扱いしている様子がまったく見受けられないことだ。豪州のコンヴェンションではあちこちでパネリストをやっているそうだし、SF雑誌にも頻繁に登場している。一九九九年にメルボルンで開催されるワールドコンには、ベンフォードと一緒に呼ぼうなんて予定まであるのだ。ちょっと南のほうも向かなきゃなと思う今日このごろである。

[SFマガジン・97年7月号]


[ホームページ版註釈]

 この文章が掲載されたSFマガジン発売から二週間後の1997年6月8日、ジョージ・ターナー氏は、脳卒中のためヴィクトリア州の自宅で逝去された。享年80歳である。




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