[冬樹蛉が選ぶティプトリー短篇ベスト3]
「ビームしておくれ、ふるさとへ」
「ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?」
「男たちの知らない女」
「SFってのは、物事を相対的に見るんだよ」なんてことを、一日の長のある読者は初心者に言ったりすることだろう。言うは易しだ。だが、ティプトリーほどそれを徹底的に、さりげなく、しかも文句なしに面白いエンタテインメントの形でなし得た作家を私は知らない。相対化すなわち、対象からの分離(ルビ:ディタッチ)であり、疎外である。透徹した知性による相対化の刃は常に自己にも向かわざるを得ず、その果てには往々にして自己解体が待っているものだ。それでもなお、フィリップ・K・ディックや坂口安吾ですら生臭く思えてくるほどに、ティプトリーの目はいつも静かで冷たい。いっそ非人間的なまでのその冷たさは、なんの因果かこの世界に投げ出されているわれわれが、なぜか懐かしくせつなく知っているふるさとの冷たさである。どこにもないふるさと。どこにもないというのに、どうしようもなく知っているふるさと――。ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアなる現象は、SFの――いや、文学の、藝術の、人間存在の――原点にあるその冷たさ、せつなさを、精神的にも技巧的にも破綻することなく表現しおおせたひとつの奇跡だと私は思っている。
「ビームしておくれ、ふるさとへ」は、妙な言いかただが、最もティプトリーらしくないがゆえにティプトリーらしさが痛いほどに感じられる作品だ。冷徹な宝刀の鞘を払い切らずに、そこにアリス・シェルドン個人を垣間見せているからである。ティプトリーのどの作品も(コミカルなものでさえ)私には同じように見える。同じように冷たく、そして傑作だという意味だ。が、この作品はちょっとヘンなのだ。むしろ失敗作に入るだろう。なあに、かまうものか。人は優れた作品を愛するとはかぎらない。敢えてベストに推すのは、きっと蛇足だと知りながらあのラストを書いた彼女に対する敬礼である。空気のあるところでしか飛べない乗りもので宇宙に飛び出そうとした主人公のせつない愚行は、自分自身からも疎外されて alienated いたとしか思えない、ティプトリーの自家撞着的かつ強靱な精神のありかたそのものだ。このせつなさのわからんやつは人間じゃない。
次点としては、「愛はさだめ、さだめは死」「エイン博士の最後の飛行」「故郷へ歩いた男」「一瞬のいのちの味わい」「たったひとつの冴えたやりかた」を挙げておきたい。「たったひとつ……」の作風に代表される晩年の宇宙おとぎ話には違和感を覚える向きもあるだろうが、私はそこに、暖炉脇で編みものに夢中の老婆が、斬りかかってきた賊の太刀を平然と編み針で受け止めてみせたかのような無邪気な風格を見る。
氷の刃で己が胸を切り裂いて、滴り落ちる熱い血潮が冷えてゆくのを静かに見つめている少女――それが、ティプトリーだ。
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