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身体の文学史
(養老孟司著、新潮社、1997年、1339円、ISBN4-10-416001-6)
養老孟司の面白さというのは、自分の言説が脳というハードウェアに必然的に依存することを常に意識している点だ。われわれは「私が考えている」などと不遜なことをついつい思ってしまうのだが、養老氏は「胃が鳴っている」というのとまったく同じように「脳が考えている」と考えながら考えるのが習い性になっているらしい。こうした円環的な自己言及性を意識した視点は、自然科学者としては当然のものであろうし、この高度情報化・大衆化社会にあっては、言語化する能力こそ欠くものの、ふつうの女子高生ですら日常的に駆使するものの見かたにすぎない。
が、養老孟司が無邪気を装い(あくまで、装い)解剖学的視点を文藝批評に導入するとき、日本の近代文学が孕んでいた(ことによると、いまも孕み続けている)歪みが、痛快なまでに暴き出されるのだ。すなわちそれは、「身体という自然」に対する精神の優位性という信仰であり、そこに起因する過剰なばかりの倫理性である。養老孟司にかかれば、“自然主義”といえどもそれは“ナマの自然”を対象にしているのではなく、「ありのままに人工を描」いているにすぎず、「ほとんど詐称と言うべきだろう」ということになる。養老氏は、この調子で明治以降の日本文学をザクザクとメスで切開してゆく。「志賀直哉のように、年中機嫌が悪くなって、ああでもない、こうでもないと考えるのは、大脳辺縁系の機能を、同じ大脳の新皮質が、苦労して翻訳しているのである」なんてのには大爆笑してしまった。こんな文藝評論があるものかと思う人もいるだろうが、批評家が作家と同じスキームで論じているばかりでは、そこからは作家の意図したものしか出てこないであろう。作家の出したなぞなぞを批評家が解いてみせれば終わってしまうのだとしたら、小説など最初から書く必要はない。作家が論文を書けばいいだけの話だ。「身体に目を据えて、文学表現を追う」という養老孟司の方法には、フェミニズム批評に初めて触れたときに誰もが思ったにちがいない“ミもフタもなさ”がある。そんなのありかよ、とは思う。ありなのである。
私がSF読みとして本書をたいへん面白く思ったのは、養老孟司の言う「身体という自然」も含めた形而下的“ミもフタもなさ”を、詐称でない自然主義的意味で描いてきた文学は、SFにほかならないからだ。ひょっとしたら、これは主流文学がSFを排除してきた一因ではあるまいかとすら思う。本書の深沢七郎論に指摘があるように、中世的な「身体という自然」を生(き)のままで戦後の文学に持ち込んだ深沢を、三島由紀夫が「どうも、うす気味わるい」と思っていたのと同じく、形而下的視点で形而上の概念にまで殴り込みをかけるようなSFの方法論は、主流文学の側からは長らく「うす気味わるい」ものに見えていたのではあるまいか。それをやられては、精神優位主義の竹槍的倫理など砕け散ってしまいかねないからだ(そんなものは砕け散らせればよろしい)。
本書では三島由紀夫や深沢七郎あたりまでしか論じられていないが、養老孟司にはこのアプローチでぜひ現代日本文学も論じてほしい(単発の書評はたくさんあるのだが)。たとえば、吉行淳之介から日野啓三にまで受け継がれている“細胞”という言葉の特殊な用法は、養老孟司の目にどのように映るのだろうか。また、いわゆるスリップ・ストリームには養老的視点を共有するものがあるし、認知科学や分子生物学の洗礼を受けた若手作家のいくつかの作品は、「身体という自然」のうす気味悪さを現代的な人工環境の中に復活させている。いわば、彼の言う“詐称の自然主義”の逆をやっているわけだ。こうした作品に対しても、養老孟司のメスは切れ味を発揮するはずである。なにしろ、『ガメラ2』で群体レギオンを解剖した先生ですからね。
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