 
何もかも不透明で不確実
 
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この日本では常に、何事においても、
 根本的なことは明らかにされず、
 何もかも不透明で不確実なのが普通だと言っていいかも知れません。
 
 原子力発電所の事故であったり、
 原発に関してであったり・・。
 盛んに話題に上っている節電や電力自給のことであったり、
 沖縄の基地の問題であったり・・・、
 多くの人の命を奪った交通事故のことであったりしても、
 根本的なことは明らかにされず、
 何もかも不透明で不確実なことばかりです。
 事が起きても、私たちにたいして、
 根本的なことが、明確に説明されることはありません。
 
 こと日本のキリスト教の布教や宣教にいたっても同じなのかもしれません。
 信仰が広まらない理由なのかもしれません。
 聖書・バイブルは、
 
 「 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。
 私たちはこう考えました。
 ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、
 すべての人が死んだのです。」
 (新約聖書・コリントの信徒への第二の手紙・5章14節・新改訳聖書)
 
 この、・・ひとりの人がすべての人のために死んだ・・・という出来事は、
 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのですが、
 これこそがキリスト教の信仰の根本をなすものなのですが、
 その内容と意味とが、私たちにたいして明らかにされ、
 その内容と意味とが具体的に詳しく解き明かされることは、
 解き明かされるに、もっとも適した機会であっても、
 説き明かされることはありません・・・・。
 
 聖書・バイブルの記述に・・・パウロは大胆に言います。
 
 「悟りのある人はいない。
 神を求める人はいない。
 すべての人が迷い出て、
 みな、ともに無益な者となった。
 その舌で欺き、
 善を行なう人はいない。
 義人は、正しい人は、ひとりもいない」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章10節~18節・参照)・・・と。
 
 人間というものは、生まれながらに罪深い性質を持っていると、
 すべての人が罪の下にあると責めたてるのです。
 そうでなければ、
 ひとりの人がすべての人のために死んだ・・・・という出来事など必要とはしないのですから。
 キリスト教の信仰は、
 決して品行方正の方たちのものではありません。
 正しい人のためにあるのではありません。
 罪人のためにあるのです。
 
 イエス・キリストは、
 罪人のために、罪をその身に負い、
 十字架にかけられ、命をささげることによって、
 私たちの罪を贖って(あがなって)くださったのです。
 
 私たち人間が、あらゆる苦境から、
 救われることも逃げることもできない状態でなければ、
 神のひとり子であるイエス・キリストが救い主・メシア・キリストとして、
 この世界に生まれ来られる必要などないのですから。
 
 何もかもが不透明で不確実なのが、
 罪の下にあることを示しているのかもしれません。
 北白川 スー
 
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Wrote up on May 14, 2012.