キリスト教の福音って何



こと宗教は、信仰は、信仰心は
人間の生き方に深くかかわる事柄に違いありません。
生活の中に根付き、暮らしに深く結びついているはずです。
人の思いや言葉や行為に大きく影響を与えているはずです。
その人を形作っている価値観と言ってもいいでしょう。

日本のような風土において、
生活や思考や精神性において、
””キリスト教に改宗する””ということは、
もともと宗教的な人であっても、
それは、大きな出来事、転換点であったはずです。
自分の価値観を大きく転換させるだけのインパクトある出来事に出会っているはずです。

その出来事こそ、キリストの福音と言われるもの、
良き知らせ・ゴスペルと言われる出来事なのです。

その出来事こそ、
ひとりの人がすべての人のために死んだというおどろくべき出来事なのです。

罪を認めないイエスが十字架にかけられ、
罪人として死刑され、葬られ、
3日の後に死人のうちから復活したという出来事なのです。

神のひとり子イエス・キリストの
十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。

すべての人の罪をその身に負い、
すべての人の身代わりとして、
命を代価として、罪の代償を支払ってくださったという出来事なのです。

その罪とは何でしょうか、

すべての人の罪とはどのような事なのでしょうか・・・。

昨日今日犯してしまった過ち・・・、
交通違反や、法律違反や、犯罪や、
ルール違反や、人間倫理に反した行為のことなのでしょうか。
いいえ、そうではありません。
もっと根の深いところにある、人間の罪深さ、
人間の本性的な罪深さ・・・。
生まれながらに負っている性質のことなのです。
それを原罪(げんざい)と言います。

私たちの思いや言葉や行為といったものに直接に影響を与えている
生まれながらに負っている性質のことなのです。
すべての人の人生は、原罪・生まれながらに負っている性質に支配されているのです。

私たちが目にする耳にする、また経験する、
苦境の中に追い込まれ、困難な問題に埋もれている人間の姿そのものなのです。

その「原罪」とはいったいどのようなことなのでしょうか。

最初の人間アダムが、
この世界を造られた、また人間をも造られた創造主なる神に背いてからというもの・・・。
アダムとイブが、
神の命令に背いて禁断の果実を取って食べたというエデンの園の出来事なのですが・・・。
それ以来、アダムに続くすべての人類は、
ことごとく罪の性質を持って生まれてくることになったのです。

もともと、神の形に形取られて造られた人間は、神の形に似せて造られた人間は、
素晴らしい存在として、永遠に生きる存在とされたのですが、
神に背いたことにより、神への背きの結果として、人の生の中に死が入ってきたのです。

「罪が支払う報酬は死です。
しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・6章23節・新共同訳聖書)

イエスの時代の処罰には、ムチ打ちや石打ちなどによって、肉体に苦痛を与え、
その苦痛の強さによって罪が償えると考えられています。
しかし、日本の社会には、そのような意識はありません。
罪人の改悛の情を判定する情状酌量という考え方です。
罪を悔い反省しているのだから、
過失にたいしては再教育というチャンスを与えるのが日本式です。
ですからこと日本では、「罪の報酬は死」という考え方は理解されません。

神への背きの結果として、
罪の報酬として死が人間の生の中に入ってくることになったのです。
さらに、創造主なる神に背いた罪には、
当然のこととして「裁き」が待ち構えています。

「また、人間にはただ一度死ぬことと、
その後に裁きを受けることが定まっているように、」

(新約聖書・ヘブル人への手紙・9章27節・新共同訳聖書)

この神の裁きから救われるためにどうすればいいのでしょうか。
神にたいする人間の罪を赦す(ゆるす)ために・・、
創造主なる神は、神のひとり子イエスを地上に生まれさせ、
罪を認めないイエスを罪人として、十字架にかけ、
神の怒りを、イエスの上に下されたのです。
創造主なる神の、被造物(人間)にたいする愛を示されたのです。

イエスの命を代価として、被造物としての人間の罪を贖って(あがなって)くださったのです。
神の裁きから救われるために、この出来事を承認し受け入れ信じること・・・・。
そして、創造主なる神にたいする自分の態度を変えること、
つまり、神に背を向けていた者が、神の方に向きを変えることなのです。

私たち人間は、素晴らしいものとして創造主なる神によって創造されたのです。
しかし、その神に背いてしまったため、
私たち人間は大きな重荷を負わなければならなくなったのです。
つまり神の作品が、作者である神にたいして大きな損害を与えてしまったのです。
その、神に与えた損害の埋め合わせとして、
神ご自身が、私たちが負うことのできないほど大きすぎる損害のために、
神のひとり子の命を、私たちに代えて、ささげてくださったのです。

必ずやって来る世界の終わりのとき、世界の終末むのとき、
つまり、最後の審判のとき、神の裁きのとき、この問題の決着がつけられます。
私たちの罪を贖ってくださったイエス・キリストを信じているかいないかが問題とされるのです。
それが、神の審判の対象なのです。

イエス・キリストこそ、やがて来る神の裁きから救ってくださる救い主なのです。
これこそがイエス・キリストへの信仰の根本なのです。

「こうして、罪が死によって支配していたように、
恵みも義によって支配しつつ、
わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章21節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on October 23, 2010.