孤独の中での信仰



日本の社会では、クリスチャンは、ごくごく少数派ですから、
クリスチャンであること自体、孤独なものです。

しかし、
教会に所属しながらも、
教会生活の中にあっても、
教会から離れてしまっても、

孤独の中で、苦しみながらも、
信仰を守り続けているクリスチャンは多いものです。

この現状は、・・本来の状態と違って・・、
日本独特かもしれません。
孤独の中で生きているクリスチャンの多さをも物語っているのです。

心の通い合う相手が一人もいないで、
孤独を味わっている方に問いますが、
救い主・イエスと共に有るという感覚はどうでしょうか。
救い主・イエスと共に歩んでいるという感覚はどうでしょうか。
孤独の中で主イエスと向かい合っているのでしょうか。

孤独の中で信仰を守っているクリスチャンを作ってしまった原因は、
クリスチャン自身に、また教会自身に問題があるのかもしれません。

問題なのは、福音が語られ、福音が届いているかということです。

「 わたしは福音を恥としない。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、
信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
福音には、神の義が啓示されていますが、
それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。
「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16~17節・新改訳聖書)

ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いの業(あがないのわざ)という出来事の、
内容と意味とが教会で語られ解き明かされているかどうかということです。

孤独の中に在る人に、励ましを与えることが福音ではありません。

ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の出来事を、
自分自身の事として捉えられるか否かにかかっているのです。

クリスチンという存在は、
主イエスにあって、新しい命に歩む存在です。
主イエスと共に十字架に死んだ者は、
罪の性質から解き放たれているのです。

「・・・・・罪に対して死んだわたしたちが、
どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。
それとも、あなたがたは知らないのか。
キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、
彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、
彼と共に葬られたのである。
それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、
わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙6章2~4節・口語訳聖書)

孤独の中で信仰を守っているクリスチャンへ、
主イエスは・・・・、

「 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。
だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、
わたしは中に入ってその者と共に食事をし、
彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」

(新約聖書・ヨハネの黙示録・3章20節・新共同訳聖書)

決して、あなたは孤独ではない、
主イエスは、常に、あなたに語られ、
あなたに手を差し伸べられている。
あなたは、その手をつかむか、否かの問題なのです。
あなたを支えるのは主イエスご自身です。


北白川 スー

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Wrote up on February 23, 2019.