我の神たるを知れ・わたしこそ神であることを知れ



聖書・バイブルの言葉は、
神の言葉として私たちに語りかけてきます。
しかし、私たちは、まったく気づこうとはしません。
・・「汝ら静まりて、我の神たるを知れ。」・・
文語訳の旧約聖書の詩篇の有名な言葉です。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。
わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、
全地にあがめられる。」

(旧約聖書・詩篇・46編10節・口語訳聖書)

また、マタイの福音書では・・・。

「 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

(新約聖書・マタイによる福音書・6章33節・新改訳聖書)

何よりも先に、いつも神のことを第一にしなさい、考えなさいと。
しかし、私たちは、そうではありません。
自分の考え方ややり方や生き方から、何事も始めようとします。

自分の判断でものごとをやり始めたときから、
人間の堕落が始まったと聖書・バイブルは語っています。
それが、私たちの罪の性質なのです。

自分の思うとおりに行かないとき、
それは、苦しみや、悲しみや、
ときとして怒りを覚えるときなのです。
私たち人間は、神の義ではなく、
人間の義を求めあらわすことに、やっきになります。
それが人間の本当の姿なのです。

聖書・バイブルは、
まず何よりも先に、
行動を起こす前に、
言葉を発する前に、
神である存在に、身を、目を、耳を向けよと・・・。

・・汝ら静まりて我の神たるを知れ・・
私たちは忘れています。
神は善であり聖なる存在であることを。
また、すべての権能の持ち主であることを。
神としての権利を主張し行使される存在なのです。
だから、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事こそが、
ただ、神だけができる、
私たち人間の罪、つまり神にたいする罪にたいしての、
勝利の出来事として、
究極の選択であり、究極の態度決定なのです。

神は悪人を裁かれません。
悪人を裁くことに喜びを見出すお方ではないのです。
ただ、罪にたいして、
罪を裁くことに勝利を見出されるお方なのです。
それが、イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。
私たちに愛があるなら、原発を作らないでしょうし、
ビンラディンを殺すことなどしないでしょう。


北白川 スー

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Wrote up on May 05, 2011.