信仰によるビフォーアフター



家具や電化製品が所狭しと場所を主張するようになり、
古くなった住宅を、住みづらくなった住宅を、
匠ならぬ巧みな建築家によってリフォームするというテレビ番組があります。
巧みな建築のプロは、
まずは、思い切って古家の壊しに取りかかります。
当の家の住人には、とうていできなかった、
手をつけることができなかった荒治療をするわけです。
長年住み慣れたわが家では、
長い年月に積もり積もったホコリが舞い上がります。
あれよあれよと言う間に、不便であっても住み慣れた家は壊されていきます。
そして、白アリにむしばまれた基礎や柱や梁が次々と明らかにされていきます。
腐り果てて役目を果たしていなかった柱や梁が明らかとなってきます。
倒れてつぶれていても不思議ではなかったことが明らかとなってきます。
しかし、それもひと時のこと、
すぐさま片づけられたいきます、暮らしの跡形もなく・・・。
そして、今まで思い描いたことのなかった、
新しい風景が展開されていきます。

「 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、
新しく創造された者なのです。
古いものは過ぎ去り、
新しいものが生じた。」

(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章17節・新共同訳聖書)

さて、
人生に、何らかの問題をかかえて、
困り果てて教会にたどりつく人がいます。
自分の感情に整理が付かず迷ったあげくに教会にやってくる人がいます。
自分の生き方がまわりの人に受け入れられず、
自分の生き方にたいして肯定的な言葉や態度を期待して教会にやってくる人がいます。
本来ならば、教会において感情のビフォーアフターを経験してほしいわけですが、
それがキリストの福音に接した結果として・・・。
しかし、なかなか、そのようには展開しないのが現実です。
テレビ番組のようには行かないのです。

感情のビフォーアフター・・・とは、
今までの物差し、価値観やものの見方や考え方ややり方といったものを捨て去るという、
そして新たな生き方・価値観を手にするという、
意識の大変化・大転換をすることなのですが・・・。
自分の立っている位置への認識・・・、
自分の存在というものへの認識・・・・が変わらなければならないわけです。
それがビフォーアフターです。

つまり、今まで立っていた位置や向きを変えるということです。
困難や問題を抱えている人の感情は、
 ”自分を除いて存在するのが、世界であり世間であり環境なのです。”

キリスト教の信仰とは、
聖書の価値観は、
 ”自分を含めて存在するすべてが、世界であり世間であり環境なのです。”

神と人間との関係においてすべての事柄を考えます。
創造主なる神と、被造物としての人間との関係なのです。
リニューアルにはリセットが必ず必要です。
個人的な事情にはおかまいなく、
少しも手加減することなく、どんどん壊していかなければなりません。
リセットができない人には、リフォームなどあり得ません。
依然として古い家に住み続けるならば、
リフォームなどあり得ませんから。
感情のビフォーアフターとは、
 ”自分とまわり ”という関係から、
 ”自分を含めたすべて ”という関係への転換なのです。
 ”神と人間 ”との関係に立つことが信仰です。

あくまで自分の生き方にこだわるのなら、
それは、自己中心の自分とまわりとの関係ということですから。
自分の立っている位置の認識の違いというものを認識することこそ、
それが、目からウロコの体験なのです。
心のリニューアルこそ信仰そのものです。

「 実に、信仰は聞くことにより、
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)

白アリにむしばまれた基礎や柱や梁が明らかにされ、
腐り果てて役目を果たしていなかった柱や梁が明らかとなってきてこそ、
新しい基礎や柱や梁が必要となるわけです・・・・。
それ無くしてリニューアルもビフォーアフターもあり得ません。

しかし多くの人は、
役目を果たさなくなった基礎や柱や梁を、
明らかにされることを恐れ拒み続けます。


北白川 スー

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Wrote up on February 08, 2012.