はかどらない日本の福音宣教



2004年にネット上にホームページを開設してから15年の年月が過ぎ去りました。
この間、日本のキリスト教を取り巻く状況は、
依然として変化は見られません。
福音宣教が進んでいるとは言いがたく、
停滞ではなく後退していると言っていいかもしれません。

はかばかしくはかどらないのが日本の福音宣教の現実なのです。
目的に向かって順調に事が進行し展開しているとは見えないのです。
動きとか、流れとか、勢いとか、風が吹いているとか、
そのようなものは感じられません。

何がそうさせている原因なのでしょうか。

日本の社会は、人たちは、
キリスト教文化に好意的であっても、
自らの精神性とは関係ないのです。

新しいものへと目先を変えて行く傾向が強いものの、
信仰には、結びつかないのです。
キリスト教は、過去のもの、古臭いものなのでしょうか。

聖書・バイブルの物語は、
既存の日本の文化のあり方を、
その根底から突き崩すだけのインパクトある内容を含んでいます。
しかし、引き付けられることはありません。
惹きつけられることはありません。

いや、そうではなくて、聞こえてこないのです。
聞こえなくては、
振り向くことも惹きつけられることも起きないのです。

イエス・キリストの出来事が語られなくては届きもしません。
聞くことさえも気づくこともできないのです。

日本人は、人間的に生きることが、
「私・我」に執着することが良しとされ、
人間としての自分を、より充実したものへ目指すことが良しとされ、
それこそが日本人の特徴なのです。

しかし、聖書・バイブルは、「捨てよ」と・・・・語ります。

「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。
全くありません。
既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
次のように書いてあるとおりです。
「正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。ただの一人もいない。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章9~12節・新共同訳聖書)

日本では、受け入れがたい内容です。

日本では、善良であることが前提ですから。
何らかの問題が起きれば、それは、
社会や社会の構造・システムに問題があるものとします。
社会の構造・システムに問題があると考えますから、
人間自身に問題があるとは考えないのです。
人間自身に問題があるとなれば、
その人は途端に取り除かれ、外されます。
社会の構造を構成しているのは人間のはずなのですが。

聖書・バイブルは、
社会の欠陥を人間の欠陥にまでさかのぼって明らかにします。
人間自身が、弱く愚かで盲目であるという認識に立つのがキリスト教の教えです。
人間というものが、強く、正しく、かしこく、ものごとの道理がよく分かる存在であるなら、
社会で起きている事は、ことごとく矛盾してきます。
いっさいのことが説明がつかなくなります。

聖書・バイブルが言うように、
人間とは弱く愚かしい存在であるとする認識は、
信仰においては何らみじめなものではありません。
その認識こそ、出発点なのですから。
新しい創造の始まりなのですから。

「イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。
人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章3節・新共同訳聖書)

キリストの福音とは、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事だからです。


北白川 スー

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Wrote up on November 05, 2019.