未伝の地、日本



日本人が、キリスト教を避けているわけでもなく、
拒絶しているわけでもなく、
聞く耳を持ち合わせていないのでもなく、
ただ、福音が届いていないだけのことなのです。

福音とは何んでしょうか、
福音とは、まぎれもなく、
イエス・キリストが恵みであり、
難しく言えば、神の恩寵であり、福音の内容なのです。

イエス・キリストが恵みであり、福音の内容なのです。

「 主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。
聞いたことのない方を、どうして信じられよう。
また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章13~14節・新共同訳聖書)

人間が、基本的に、愚かで弱く、迷っている存在なのだという認識に立たなければ、
そのような存在から救い出す救い主として、
イエス・キリストを位置付けることは出来ません。

自分が弱く愚かで惨めな存在だとは、だれしも認めたくはないでしょう。
特に日本人は・・・・・。

盲目で、愚かで、弱い・・・・・・という認識に立たなければ、
そこから抜け出すことなどできません。

このような認識は、信仰に限ったことではありません。

普段の生活においても、暮らしや社会においても、
政治や経済においても、
もっとも大切な視点であるはずです。

客観性や自らを客体視することの大切さということでしょうか。

言い方を変えれば、
自分でも自分のことがよく分からないのが自分なのです。

だから、導き手という存在が必要になるのです。

しかしながら、こと日本では、
自分を信じることが大切で素晴らしいことだと教えられています。
自分を信じて自分の可能性を活かす・・・・・。
何度でも努力を重ねることが美しいことだと・・・・。
実りは少なく薄いにもかかわらず・・・・。

このような立ち位置では、信仰といものの意味は失われます。


北白川 スー

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Wrote up on January 05, 2020.