福音は、語られているのか
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著者の小論において、
この日本においては、福音は語られていないと、否定的に論じていますと、
いや、語られていると、語っているとの反論をいただきます。
では、語られているとされる福音の内容とは、理解とは、
いったいどのようなものなのかと問いかけたい。
聖書では、明確に、福音とはイエス・キリストの御業であると、
イエス・キリストの十字架の死による贖いの業という出来事、
イエス・キリストの死と葬りと復活であると、
つまり、私たち被造物に対して示された、
神の啓示そのものなのです。
福音を宣べ伝えるとは、
私たちに向けて、
神によって明らかにされた神の啓示を明らかにするということです。
イエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味とを、
説き、解き明かすこと、そのものなのです。
聖書の記述は、
神の啓示を聞き、また見た人たちの証しそのものです。
私たちは、その神の啓示を信仰によって認識するだけなのです。
福音とは、神の啓示、
イエス・キリストの人格と、十字架の死という業・わざ・によってのみ、
そして、私たちの信仰によってのみ、
イエス・キリストの業・十字架の死というわざ・が、
信仰者、個人個人に適用されることを意味しているわけです。
信仰によってのみキリストの業が、
信仰者に当てはめられるという扱いを受ける・・・・ということなのです。
「口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
あなたは救われるからです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9節・新共同訳聖書)
では、どのように適用されるのか。
私たちは罪人であることと、
罪人だということは、どういうことなのかということを、
神の啓示の出来事、イエス・キリストの十字架の出来事によって明らかにされ、
罪の深みの中にある私たちに向けて、
神の恵みとして明らかにされたということです。
しかし、クリスチャンでさえ、
罪人であることを否定される方もおられます。
私は罪など犯してはいないと。
私たちすべての人間は、創造主たる神にたいして罪を犯し、
神の怒りの裁きを受ける対象なのです。
正しい人など、一人もいません。
すべての人が罪人なのです。
だから、ひとりの人がすべて人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事が起きたのです。
私たちは贖われなくては、神の怒りの裁きから救われません。
私たち人間は、
その思い、その言葉、行為や行動によって、
常に、自分にたいして、人にたいして、神にたいして、
罪を犯し続けているのです。
神にたいして罪を犯した人間の姿そのものなのです。
信仰を持ったからといって、洗礼を受けたからといって、
思いや言葉、行為や行動といったものが、
すぐさま改まるものではありません。
罪人のまま一生を終えることになります。
しかし、人生は死で終わるのではありません、
永遠の命が約束されているのです。
信仰者の死とは、目覚めるために眠りにつくのです。
「イエスは答えて言われた。
「はっきり言っておく。
人は、新たに生まれなければ、
神の国を見ることはできない。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章3節・新共同訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on August 02, 2018.