 
死を認めるということ
 
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日本では、もともと古代から、死という概念はなく、
 死者の魂はさまよい続けるという民俗信仰があります。
 ですから死んだ者の霊が宿るところとして位牌や墓があるのです。
 またそれが共同体の共通性のある固定化した観念として、
 共同体の維持に欠かせないものとして働いています。
 日本人の人生の節目節目に行われる祭りごとは、みなそこにみなもとを持っているのです。
 
 肉体は朽ち果てても霊魂は浮遊し続けると信じられている日本の民俗信仰にたいして、
 キリスト教で言うところの死や命とは何かということについての教えは、
 受け入れられるのでしょうか。
 
 人間は、世界を創造された創造主なる神から吹き入れられた息によって生きるものとなった・・・。
 人は神の霊によって神と結びついていて、
 神の息すなわち神の霊は、からだを生かすものなのです。
 私たちの命は、神から来て神に帰るのです。
 人の死は肉の終わりにすぎないのです。
 私たちの死とは、目覚めるために眠りにつくということでしょうか。
 そして、イエス・キリストの死人のうちからの復活について。
 
 さらには、永遠の命について・・。
 人間の人生は死で終わるのではなく、
 生きている者も、かつて生きていた者も、
 やがて必ずやって来る、神の裁きのとき、
 天国か地獄かへの審判が待っている・・・。
 しかし、イエス・キリストへの信仰によって、
 とこしえの命へ移される・・・という希望によって生きることができる。
 再び霊と体が結び合わされて復活するのです・・・。
 
 キリスト教が言うところの復活の体を与えられることについて。
 人は死んでも霊魂は生き続けるという日本の民族信仰にたいして、
 キリスト教のいう、死と復活という概念は通じることができるのでしょうか。
 
 キリスト教は、まぎれもなく復活信仰です。
 
 「 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。
 それならば、神はまたそのように、
 イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。」
 (新約聖書・テサロニケの信徒への第1の手紙・4章14節・新改訳聖書)
 
 イエス・キリストを信じて死んだ人たちの、
 新しい世界に移されるという・・・・復活について。
 それが否定されると、
 キリスト教の信仰が成り立たなくなります。
 一番大事なことがらなのです。
 
 「 なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、
 善であれ悪であれ、
 めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、
 報いを受けねばならないからです。」
 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章10節・新共同訳聖書)
 
 だからこそ、私たちが生きている間の行為や行動は、
 家庭生活であれ、社会的生活であれ、
 個人の利益を求めない精神性が生まれてくるのです。
 社会的な利益を求めるという方向性は同じですが、
 共同体の維持にかかわる根本的なことがらは、
 日本の民俗信仰と、キリスト教の信仰とでは、
 大きな違いが存在していることは事実なのです。
 
 「 キリスト・イエスにつく者は、
 自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、
 十字架につけてしまったのです。」
 (新約聖書・ガラテヤの信徒への手紙・5章24節・新改訳聖書)
 北白川 スー
 
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Wrote up on June 13, 2011.