 
心と、思いと、そして態度
 
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人は、さまざまに苦しみながら、悩みながら、
 時として、不満や不安、願いや欲求や、痛みや悲しみに怒り。
 そうあってほしいと思いながら生きている。
 しかし、人生は思う通りには行かない。
 願いは実現しそうにはない。
 その理由は、私たち人間の思いや言葉や態度や行為や行動といったものは、
 つねに自分にたいして、人にたいして、神にたいして、
 罪深い意味を持っているからです。
 いや、罪を過ちを犯しているからです。
 
 しかし多くの人は、そうだとは気づいてはいない、
 自分は正しいとさえ思っている。
 それがすべての人に共通した性質であり体質なのです。
 その人の品位や品格、見識や人間性なのです。
 
 「 すなわち、すべての人は罪を犯したため、
 神の栄光を受けられなくなっており、
 彼らは、価なしに、神の恵みにより、
 キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章23~24節・口語訳聖書)
 
 本当の自分の姿、ありのままの自分の姿は見えていないのです。
 自分では気づいてはいないのです。
 人間の心の向きというものは、
 その人の思いや言葉や態度や行為や行動となって表にあらわれてくるのです。
 それが、罪の性質を帯びて表れてくるのです。
 それを「原罪・げんざい」と言います。
 生まれながらに負っている性質なのです。本性なのです。
 
 人間の始祖であるアダムが創造主なる神に背いてから、
 後に続くすべての人間が負っている性質なのです。
 
 私たち人間の苦しみや悩みや不安や不満といったもの・・、
 何によってそのように追い込まれているのか、
 それが何であるかをイエス・キリストは明らかにしているのです。
 しかし、明らかにするだけでは救われません。
 
 イエスは言われました。
 「悔い改めよ。天の御国が近づいたから。」
 ・・自分の心の向きを変えよ・・と。
 そうでなければ神の裁きが待っていると。
 やがて来る、必ず来る、
 神の裁きのとき、裁かれないように心の向きを変えよと・・・。
 
 では、神の裁きから救われるには何をすればいいのでしょうか。
 私たちの、神にたいする罪を、
 十字架に、
 ご自身の命をささげることによって贖って(あがなって)くださった、
 イエス・キリストを信じる信仰によって、
 神の裁きから救われるのです。
 
 「 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、
 自分の心で、
 神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、
 あなたは救われる。
 なぜなら、人は心に信じて義とされ、
 口で告白して救われるからである。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9~10節・口語訳聖書)
 
 「 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、
 キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、
 神はわたしたちに対する愛を示されました。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章8節・新共同訳聖書)
 
 自分の罪深さを知ること、
 そして悔い改めること・・・・。
 しかし、なかなかそうは行かないのが人間なのです。
 ありのままの自分の姿がいちばん見えていないのですから。
 北白川 スー
 
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Wrote up on March 24, 2011.