救われない日本
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キリストの福音は、
福音を受け入れた者の生き方を根本的に変えるものです。
「わたしは福音を恥としない。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、
信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16節・新共同訳聖書)
福音とは、イエス・キリストの十字架の出来事を表わしています。
イエス・キリストの人格と、十字架による死という”キリストのわざ”を、
承認し受け入れた者に、
キリストの”わざ”の本質が適用されることを意味します。
「口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
あなたは救われるからです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9節・新共同訳聖書)
その救いが成り立つ条件として、前提として、
福音が届いていなければなりません。
イエス・キリストの十字架の出来事、すなわち、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事が、
説かれ解き明かされなければ人間は救われないのです。
日本の社会にたいして、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事の、
内容と意味とが解き明かされなければ、
日本人は救われないのです。
イエス・キリストは、救われるための条件を明確に語っています。
「よく聞きなさい。
心をいれかえて幼な子のようにならなければ、
天国にはいることはできないであろう。」
(新約聖書・マタイによる福音書・18章3節・口語訳聖書)
人間としての生き方が根本的に変えられなければ、
救いはあり得ません。
心を入れ替えなければ人は救われないのです。
人は、
自分の思う通りに事が運ばす悩み続ける人は、
自分の義を求めて苦しみもがいています。
暮らしに行き詰まり、人間関係に苦しみ、必要が満たされず、
それらが得られると思って、何とか成ると思って、
数多ある宗教へ、またキリスト教会へ、
自分の義を得られるものと信じて、願い求めて、
それが救いだと信じて足を運んでいるのです。
しかし、キリストの福音は、
あなたに、決して義を与えるものではありません。
それどころか、
根本的に価値観の基準を替えさせる力を持っているのです。
私たちは、何かと必要が満たされないことへの不満を、
自分の思う通りに成らないことへのいらだちを、
それらが解決することを求めます。
必要が満たされることを、
状況や状態が自分の思う通りになることが、
手にすることが、望む状態に成ることが、
それこそが救いだと信じているのです。
それでは、その信仰は、ご利益信仰そのものです。
聖書・バイブルが言うところの救いは、そうではありません。
聖書・バイブルが言うところの救いとは、
まぎれもなく、”神の怒りの裁き”からの救いを意味しています。
神とは、すなわちイエス・キリストを意味するわけです。
イエス・キリストを受け入れると言うことは、
神の怒りの裁きを受け入れることですから、
社会生活を営む上での必要を手にすること、
手にすること、望む状態に成ること、
すなわち”持つこと”から離れて、
イエス・キリストの存在に基準を替えることを意味します。
手にすることではなく、望む状態に成ることではなく、
神の存在に焦点を意識を替えることを意味します。
”神の怒りの裁き”とは、神そのものを意味しているわけですから、
信仰とは、持つこと、手に入れることではなく、望む状態に成ることではなく、
神の存在を無条件で受け入れることを意味します。
自分の意志や欲求に従うのではなく、
イエス・キリストに聞き従うことによってのみ、
救いは訪れるのです。
望みを手にすることから離れて、
神の存在に意識を切り替えなければならないのです。
キリスト教的に言えば、
自分という存在は、”与えられ生かされて今ある”ということです。
北白川 スー
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Wrote up on March 08, 2018.