神がいるなら
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神がいるなら、なぜ救わない。
連日のように悲惨なニュースが報じられています。
神がいるのならば、なぜ悲惨な目にあっている人を救わないのか、という声を聞きます。
幼子が犠牲となる事件は後を絶ちません。
親から虐待を受けた幼子が命を落としました。
なぜ神は幼子を救わなかったのか・・・・。
私たちは当然のように被害を受けた人に目を向けます。
では、幼子を死に追いやった親はどうでしょうか。
幼子の命を奪った犯人はどうでしょうか。
その親こそ、救われてはいません。
その犯人こそ救われてはいません。
救われていたならば、
報じられた悲惨な事態は起きなかったはずです。
私たちは被害を受けた人に目を向けます。
それもひつように、
メディアがこぞって、メディア各社はそろって取り上げるのは被害者の情報なのです。
罪を犯した人の情報は、被害者と比べれば、格段に少ないのが現実です。
そして、被害を受けないためにどうするのか・・・と。
犯人を弁護しているのではありません。
犯人は罰を受けなければなりません。
キリスト者は考えます。
多くの日本人は救われていない。
救われていたならば、悲惨な事件は避けられただろう。
私たちは、誰もが、被害者に、まして加害者にも、
いつ成るかもしれません。
その危険性をはらんでいます。
キリスト教は、すべての人は愚かで弱い存在だと考えます。
それが人間の持つ本性的な性質なのです。
だから、ひとりの人がすべての人のために死んだのです。
ひとりの人とは、イエス・キリストのことです。
あの親が救われていたなら、幼子は命を落とさなくて済んだ。
「イエスは彼らに言われた。
「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。
『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。
これは主のなさったことだ。
私たちの目には、不思議なことである。』
だから、わたしはあなたがたに言います。
神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」
(新約聖書・マタイによる福音書・21章42~43節・新改訳聖書)
家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。
この礎の石こそ、
十字架に命を落とされたイエス・キリストのことです。
北白川 スー
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Wrote up on June 10, 2018.