罪を考えない日本



日本人ほど、・・「 罪 」・・を考えない国民性はないかもしれません。
自分たちが、どうしようもないような状態に置かれているとは考えたくないのです。
聖書的に言えば、罪深さを認めたくはないのです。
はやく手を打たなければ取り返しのつかないことになるにもかかわらずにです。
イエス・キリストの十字架の出来事は、まぎれもなく、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事です。
ひとりの人がすべての人の罪を贖って(あがなって)くださったのです。

「 ・・・・・一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、
すべての人も死んだことになります。」

(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章14節・新共同訳聖書)

「 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。
それは、すべての人のことを知っておられ、
人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・2章24~25節・新共同訳聖書)

イエス・キリストは、人の心の中に何があるのかよく知っておられたのです。
日本の教育の現場では、道徳とか倫理とかを教えるのですが、
しかし、正直なところ、多くの生徒は、
それらと、うわべだけではなく、
真姿に向き合うことをしません。
本性的な罪を認めて、罪深さを直視するなら、
ごまかしたり、加減したりしないで、
真実を正しく見つめるなら・・・。
罪の危険性を悟りえることはできます。
しかし、人はそうはしません。
人間が持っている生まれながらに負っている罪深さは、
人が本来持っている罪深さを認めようとはしない原因でもあるのです。

人間の徳を、
すべての人の模範となるような、
品性や道を説いても、
人間の本性は、
生まれながらに負っている性質、罪深さというものは、
道徳や倫理といった理念を、
心の内で、あざ笑っているのです。

それと、知っていながらも、
生まれながらに負っている本性・罪は、
罪深さと向き合って戦うことを、させないのです。
それどころか、私は罪など犯していないとさえ、
心の中で、自分自身に言い聞かすのです。
罪深さという基礎の上に立つ人生ほど危険なものはないということを知っていながら、
そうはさせないのです。

イエス・キリストは、人間の本性をよく知っておられたので、
人間を信用されません。
ですから、人間のためにすべきことをよくよく知っておられたのです。
神のひとり子、イエス・キリストは、
ご自身の命をささげることによって、
十字架の死によって、
私たちの罪を贖ってくださったのです。

創造主なる神が私たち被造物に要求されているものはいったい何でしょうか・・・。
それは、イエス・キリストの十字架の出来事を直視することではないでしょうか。

「 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。
イザヤは、・・主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか・・と言っています。
実に、信仰は聞くことにより、
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章16~17節・新共同訳聖書)

それでも、自分たちの心の中にある罪を考えたくない日本なのです。


北白川 スー

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Wrote up on October 23, 2011.