神の言葉を



日本では理解されることのない、
いや、何をバカなことを言っていると、
皮肉を込めた批判や、
拒絶さえ起こりうるこの日本にあって。

この世界を、天地万物を、私たち人間をも創造された唯一の神が、
その神が、
人間の営みの中に、生産現場の中に、教育の現場であっても、
暮らしの中の隅々までも、
人間がどのような形であれ、
さまざまな人間的な営みの中に、
私たち人間のただ中にあって、
聞く耳を持ち合わせていようが、
聞く耳を閉ざしていようが、
知識として知っていようが、
まったく知らない事柄であっても、
人間に向けて語られ、
今も人間に向けて語っておられる言葉、
これからも語られる言葉・・・・・・。

すべての人間のために、
私たちが感じ、また見える距離にあって、
人間と共に行われた神の行為の言葉・・・・。

神のひとり子イエス・キリストの十字架の死による、
贖いの業(あがないのわざ)という出来事を通して・・・、
すべての人に向けて語られた神の言葉・・・・。

イエス・キリストの十字架による死という出来事は、
神の声なき行為ではなく、
それ自身が語っている行為なのです。

私たちは、その神の行為から聞かなければなりません。
すべての人間に向けて語られた神の言葉なのですから。

「実に、信仰は聞くことにより、
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)

なぜにイエス・キリストは十字架に死んだのか・・・・・と。
この出来事は、私たちの本性に迫る出来事なのです。
だれ一人として例外ではありません。
なぜなら、
イエス・キリストの十字架の出来事は、
ひとりの人がすべての人のために死んだ出来事だからです。

キリストは、私たちの罪科のために、
私たちに代わって、
命を投げうち死してその裁きを受けられ、
償いをしてくださったのです。
私たちの罪科とは、裁きとは、償いとは・・・。
いったいどういうことなのでしょうか。

「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、
一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章18節・新共同訳聖書)


北白川 スー

関連記事・「キリストへの信仰」

表紙にもどります。

アーカイブスへ。


http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
su-kitashirakawa Official Website
Wrote up on Dcember 22, 2018.