 
信仰・結婚・家族
 
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クリスチャンであれ、ノンクリスチャンであれ、
 信仰を持つことであったり、
 結婚を考えるときであったり、
 信仰を持つことにたいして、結婚を考えようとしたとき、
 その行動にたいして、必ずと言っていいほど、
 その人から見て、外からと言えばいいでしょうか、
 多数派からと言えばいいでしょうか、
 その話にたいして、横から、わきから、
 口を出して文句をつけられることがあります。
 
 その信仰について、その結婚について、
 その人の属する家族から、親戚から、共同体から、
 取りやめよ、考え直せと、注文がつくのです。
 
 その信仰が、その結婚が、
 その人の属する共同体の秩序の維持を乱すことになると・・・。
 その信仰が、その結婚が、
 その人の属する共同体から、
 また属そうとする共同体から、
 好ましくなく、とうてい受け入れられないものなのだと。
 個人的なパフォーマンスを許容しない強い意識が存在しているのです。
 
 そこには、物事の在りかた、それを道として、
 精神の中心に置き、大事に伝承してきた、
 地縁、血縁で結ばれた共同体を守ることを目的として機能してきた日本の民俗があるのです。
 
 その民俗こそが信仰なのです。
 
 そこに信仰が生まれ、
 その信仰によって、コミュニティーの秩序が守もられ、
 共同体が形作られてきたのです。
 
 日本の民俗信仰は人間関係にその源が置かれています。
 家族という単位が神聖なものとして、
 そこに神々の計らいが、人間にたいする神々の取り扱いがあるのだと。
 しかし、人はそうとは明確に認識してはいません。
 自分では意識してはいませんが、
 常は目立たず、精神の内部に存在していて、
 その人の行動や考えに強く影響を与えているのです。
 そのような潜在意識によって、
 日本の共同社会が形作られたきたのです。
 
 さて、
 日本における福音宣教・キリスト教信仰の布教というものを、
 強く妨げている要素が、
 日本人の心の内に埋め込まれている民俗信仰にあるとすれば・・・。
 実際の共同社会の中で起きてくるあつれきや問題とされるものは、
 その人が所属する、
 または所属しようとしている共同社会や共同体の秩序の維持のために・・・引き起こされてくるのです。
 
 イエス・キリストは言われています。
 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。
 平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
 わたしは敵対させるために来たからである。
 人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。
 こうして、自分の家族の者が敵となる。
 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。
 わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
 自分の命を得ようとする者は、それを失い、
 わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
 (新約聖書・マタイによる福音書・10章34~39節・新共同訳聖書)
 
 「 わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。
 火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。」
 (新約聖書・ルカによる福音書・12章49節・口語訳聖書)
 北白川 スー
 
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Wrote up on May 19, 2011.