心の重荷



「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、
わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

 (新約聖書・マタイによる福音書・11章28節・新改訳聖書)

よく知られた聖書・バイブルの言葉です。

しかし、私たちは、”重荷 ”というキーワードを、
なにか個人的な事情を持っている者にむけて語られているかのように受けとめていると思います。
疲れた者、重荷を負う者とは、
”私のこと ”なのだと。
一生、重荷を背負って生きていかなければならない私の・・・。

経済や健康や人間関係などに・・・、
苦しみ、痛み、悲しみ、つらさ、孤立・・・を。
心が疲れ、心に重荷を感じている人にむけて・・・。
何か特別な事情がある人に向けて語られているかのように受けとめようとします。

まわりや人間関係において、
自分の存在や、
自分の生き方にたいして肯定的な評価を得られないとき。
それは大きな心の重荷となってその人を苦しめます。
私は悪くはないし間違ってはいない・・・。

心の重荷というキーワードは、
なにか個人的な事情を持っている者に限ったものとして捕えられているのではないでしょうか。
聖書・バイブルが語る重荷とは、
個人的な事情を言っているのではありません。
誰ひとりの例外もなく持っているもの、
人間の本性的な、
人間が生まれながらに負っている、
創造主なる神にたいする負債のことを言っているのです。

その神にたいする負い目が、さまざまに姿を変えて、
私たちの状況や状態を形づくっているのです。
思いとなって言葉となって行為や行動となって、
自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯し続けているのです。

罪のない人など、例外なく存在しません。
すべての人が神の前では罪人なのです。
この前提がなければ、
聖書・バイブルの言葉は成立しません。

だから、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事が、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事が 、
”福音 ”として位置づけられるのです。

福音が対象とするのは、
だれひとりの例外もありません。
すべての人が相手なのです。
すべての人が、あてはまる扱いを受けるのです。
罪を背負っていない人などいないのですから。
罪のない人など一人もいません。

だれ一人の例外もなく、
すべての人が疲れ、重荷を負っているのです。

だから、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事が、

イエス・キリストの十字架の死による贖罪という出来事が、
”福音 ”として位置づけられるのです。

キリストは、私たちを重荷から解き放つために、
十字架に死なれたのです。

私たちのために死んでくださったキリストを信じる信仰によって、
私たちは重荷から解放されるのです。

罪による重荷から・・・・。


北白川 スー

「こころの風景」

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Wrote up on March 10, 2013.