価値あるキリストの福音



キリストの福音というものが、
価値あるものとして存在していると知ることのない日本の現状があるのではないかと・・・・。

キリストの福音とは、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事なのです・・・。
ひとりの人、神のひとり子イエス・キリストが、
すべての人の罪をその身に負い、
罪人として十字架にかけられ、
死してその罪を贖った(あがなった)という出来事・・・。
イエス・キリストの十字架の死による贖いの業という出来事こそ福音・良き知らせなのです。

すなわち、私たちに代わって、神の怒りをその身に受けられたという出来事・・・。
私たちに代わって、神と和解されたという出来事なのです。
イエス・キリストの十字架の死による贖いの業という出来事は、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事は、
この出来事は、だれひとりの例外もなく、
人間の本性的なものに深くかかわっているわけです。

 ” 生まれながらに負っている罪 ” にかかわることなのです。
だからイエス・キリストは、救い主・メシアということになります。

しかし、この日本では、そのような認識は無いに等しいと言っていいでしょう。

この日本では、人間はひとりの例外もなく、
生まれたときから罪深い性質を持って生まれてくるなどとは考えもしないことでしょう。
その性質を「 原罪 」と言います。
人間の思いや言葉や行為といったものの背景にあるもの、
私たちの思いや言葉や行為に、決定的に影響を与えているものなのです。

このような前提に立たなければ、
キリストの福音が価値あるものとして認識されることはありません。
日本では、人間という存在は、
悪に満ち満ちているとは考えないし認めようとはしません。
むしろ、自分の思いに正直に生きることこそ大切にすべきことだと・・・。
それが美徳だとさえ、
その人の持っている性質と、その人の行いの中にほめられるものがあるのだと・・・・。

しかし、聖書・バイブルはそのようには語りません。

「 若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。
青年時代を楽しく過ごせ。
心にかなう道を、目に映るところに従って行け。
知っておくがよい、
神はそれらすべてについてお前を裁きの座に連れて行かれると。」

(旧約聖書・伝道者の書・11章9節・新共同訳聖書)

自分の思いに従って、
心のおもむくままに、望むままに歩むならば、
それらすべてのことにおいて、
神のさばきを受けることを知らなければならないのです。
キリストの福音とは、
この世の終わりのときに現われる、
神の裁きから、最後の審判からの救いそのものなのです。

「あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救いにあずかるために、
信仰により神の御力に守られているのである。」

(新約聖書・ペテロの第1の手紙・1章5節・口語訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on May 02, 2010.