キリストの福音・ゴスペルって何?



人間というものは、
今の自分自身の思いや行為の延長線上にものごとを考え、また望みもするものです。
同じ家に住み、同じ暮らしを続けます。価値観の変化もないでしょう。

では、キリストの福音と言われるものは何でしょうか。
それは、いまだかつて聞いたことのない喜ばしい知らせ、グッドニュースなのです。

自分の思いや行為の延長線上には無く、また外にあるもの。
まったく新しいニュース、知らなかった事柄なのです。

たとえれば、暮らしたことのない緑豊かな豪邸でしょうし、
いまだかつて見たことも乗ったこともない車なのです。

それを聞いた者、見た者にとっては、おどろきの何ものでもないのです。
だから、アメージング・グレイスなのです。
 ”おどろくばかりの恵み ”なのです。

それは、決して私たちの思いつきやアイデアではなく、
 「神の真実」と言われるものなのです。

このように話し始めると、・・そら来た!!・・・・と思われるでしょうね。
人は自分の思いから、
自分の持てる知識から逸脱したものにたいしては拒否反応を示すものです。
当然です。
キリストの福音とは、現代の人間の着想ではないのですから。
それは歴史そのものなのです。
数千年の昔から、預言者たちによって語られてきた言葉なのです。
そして、それを聞き取ることを求めてきた言葉なのです。

その言葉は、天地創造の物語に始まる「旧約聖書」におさめられています。
その言葉が、今、現実のものとして聞くことができるようになったのです。
それがキリストの福音と言われるものでありゴスペルなのです。

私たちには、私たちの知っている世界、私たちが暮らしている世界があります。
そしてもうひとつ、私たちが知らない世界があります。
天地を造られた神によって造られながら、そこに暮らすことを約束されながら、
その神に背いてしまったゆえに、そこから追放されてしまった世界があります。
すでに私たちの脳裏から忘れ去られてしまった世界なのです。
私たちは、天地を造られた父なる神の世界から切り離されてしまっているのです。
その世界を、父なる神の愛に満ち満ちた豊かな世界を、
私たちの目の前に、明らかにあらわされた、
唯一のお方がイエス・キリストその方なのです。

イエス・キリストこそ、人間と神とを分けへだててしまった溝や壁や裂け目を、
私たちの目に、はっきりと見えるようにされた方なのです。
その溝の壁の裂け目の、こちら側の世界と、向こう側の世界とを、
私たちの目に、はっきりと見えるようにされた方なのです。

「この福音は、神が、預言者たちにより、
聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、御子に関するものである。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章2~3節・口語訳聖書)

その出来事こそ、紀元30年にエルサレムの門の外、ゴルゴダの丘にある刑場、
ゴルゴタのカルバリーにおいて、
イエスが十字架につけられ死刑となり葬られ三日目に復活した出来事なのです。

この出来事により、キリストなるイエス、メシア・救世主なるイエスによって、
もうひとつの世界「神の国」”神の支配 ”が、
見える形で、私たちの世界の中で現実のものとなったのです。

ただ、その出来事によってのみ、
私たちは、立ち止まることを求められ、
ただ、それにどう対応するか、どう応答するかだけなのです。

決してキリストの福音と対立する形での人間の行為が問題ではないのです。
キリストの福音が主体であり、それを聞く私たちは、ただ従でしかないのです。

この出来事こそ、父なる神からの、私たちにたいする一方的な恵みなのです。

ここで私たちは必ずや言うことでしょう。
死んだ人がよみがえるなんて、理解できないと・・・・。

神のはかりがたい高さ深さ広さというものは、
私たちの持っている知識や意思などでは、とうてい及ばないものなのです。
ただ、イエス・キリストの十字架の死による贖いの業という出来事において、
神のひとり子イエス・キリストの贖いの業(あがないのわざ)という出来事においてのみ、
私たちが出会った、”神の真実 ”に、ただ聞き従うことだけしか残されていないのです。

このアメージングな驚くべき出来事を受け入れた者には、
私たちの世界の混沌から解きはなされ、神の子としての特権が与えられのです。
なんとも理解しがたいことです。

「聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。
これがわたしたちの主イエス・キリストである。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章4節・口語訳聖書)

キリストの福音・ゴスペルというものは、
神と人間との関係においてのみ、わたしたちの存在が語られているのです。
 ”私が ”ではなく、”神が ”なのです。
あくまで「私が」と主張する人にとっては、聞くに耐えない事柄なのです。
父なる神は、私たちに、
イエス・キリストの十字架の出来事によって、
もうひとつの世界、天国とも御国とも言われるものの民になることを、
神の支配の下に入る道筋を明らかにされ整えられ確保されたのです。
ただ残されているのは、
その出来事を受け入れ、イエスを自分の「主」として受け入れるか否かなのです。

「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、
自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9節・口語訳聖書)

多くの人は、自分の望みの成就を願ってキリストの教会にやって来ます。
自分の思う通りになるように・・・と。

しかし、私たちが生き暮らしているこの世界しか知らない者にとって、
教会で出会うものは、いまだかつて知らされていなかった世界なのです。
私たちの知っているこの世界の中で、
荒波にほんろうされている私たちを救おうとされている、
他を圧倒する、何ものにも変えがたい、神ご自身のわざ、
人間を救おうとされる”罪からの解放のわざ ”なのです。
ですから、神の教会は、
十字架の死と葬りと復活のイエス・キリストを宣べ伝え、
神から離れてしまった人たちを、イエス・キリストの言葉をもって、
まことの神へ立ち帰るよう招くのです。
それが、キリストの福音・ゴスペルそのものなのです。
ただ、イエス・キリストを通してまことの神を見ることができるだけなのです。

かりにもイエス・キリストの福音が語られない教会があるとしたら、
その教会は、神の教会、キリストの教会ではありません。

かりにも教会が、
イエス・キリストの十字架の死による贖いの業という出来事を、
語らず、解き明かさないまま福音を説いたとすれば、
その福音は、人間にとっての福音ではなくなっているのです。


北白川 スー

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Wrote up on April 24, 2007.