裁判員裁判が裁く



交通違反にたいしては、罰則が事細かに明確に決められています。
違反を犯せば、切符を切られて、
反則点数が付加され、反則金を納める。
点数が増えれば、免許の停止や、取り上げられもする。
だから交通違反しないように、”うまく”運転しなければならない。
講習を受ければ点数は消える・・。
 ”過失にたいする教育 ”という意味合いが強い。

こと刑事裁判となれば、
民間から選ばれた裁判員が、それを決める。
責任をもって果たさなければならない重要な働きであって、
なんとも気の重い役目である。

法制化された刑事罰では、量刑がはっきりと文章で示されている。
欧米では、懲役刑60年とか150年というのもある。
犯した個々の過失にたいして刑罰が加算されていくのである。
それなのに、日本の裁判では、
検事が量刑の求刑をする。
刑罰の程度を示すわけです。
その求刑にたいして、裁判官や、民間から選ばれた裁判員が、
その判断を求められる。

ここでの判断の基準は、
罪の重さよりも、
被告人の更生の可能性を判断することであり、
心を入れ替え、社会に復帰することができるか否か・・・。
そこで、被告人に改悛の情があれば、
自分の犯した非行や罪を悪かったと悟り、
反省し、まじめになろうとするなら。
情状酌量の上、量刑を決める・・・・。
同情すべき事情を考慮して刑罰を軽くする・・・。
刑の執行の猶予が与えられもする。

つまり、日本では、
過失にたいしては教育というチャンスを与える・・・・、
これが、日本の裁判なのです。

人間というものは、もともと善なるものであるので、
本人が、心を入れ替え、
つまり、心を再生産して出直すならば、
過ちをゆるそうということになる。

名奉行、遠山の金さんのお白州での裁き・・・・。

裁判員が、死に値する罪にたいする判断となれば、
それはそれは気が重いものがあり、
後を引くものであろう。
裁判員に選ばれた人の、後の人生に強く影響を与えかねないのではないだろうか。

では、キリスト教ではどうかと言えば。

「・・・・・そこで、イエスは言われた。
わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。
今からは決して罪を犯してはなりません。
イエスはまた彼らに語って言われた。
わたしは、世の光です。
わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、
いのちの光を持つのです。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・8章11~12節・新改訳聖書)

人間は生まれたときから罪深い性質を負っています。
それを「原罪・げんざい」と言います。
罪深くなった理由もあるわけですが、
人間は罪深く、その状態から逃れることはできません。
その罪の性質が、思いに、言葉に、行為や行動となって、
自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯すのです。

そこで、信仰という重要性が生まれてきます。

「なぜなら、律法を行うことによっては、
すべての人間は神の前に義とせられないからである。
律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
しかし今や、神の義が、律法とは別に、
しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、
すべて信じる人に与えられるものである。
そこにはなんらの差別もない。
すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
彼らは、価なしに、神の恵みにより、
キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」

(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・3章20~24節・口語訳聖書)

「わたしたちは、こう思う。
人が義とされるのは、
律法の行いによるのではなく、
信仰によるのである。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章28節・口語訳聖書)

人間の罪深い性質というものは一生涯つきまとうのです。
だから、イエス・キリストに聞き従う信仰が生まれてきたのです。
クリスチャンであっても同じです。
キリスト教の教会は、人間の罪深さを自覚し悟った罪人の共同体と言っていいのです。
神にたいする罪は、もっとも重く、死に値します。
私たち人間の原罪とは、神にたいする罪なのです。
イエス・キリストは、私たちの罪を、
その身に負い、十字架にかけられ、
死刑となって、私たちの罪を贖って(あがなって)くださったのです。
自分の罪を、イエスが身代わりとなってつぐなってくださったと信じるなら、
罪は赦され、罪にたいする裁きから救われるのです。

この原罪にたいする裁きは、
世の終わりのとき、必ずやってきます。
生きている人も、かつて生きていた人も神によって裁かれるのです。
その裁きから救われるために、
イエス・キリストが身代わりとなって死んでくださったと信じるなら、
その裁きから救われるのです。

「 口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
あなたは救われるからです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on November 26, 2010.