福音はとどいていますか



「信仰は人を盲目にさせる」と、よく言われます。
非科学的であっり、迷信深かったり、
視野が狭くまわりが見えなかったり、歩み寄りに欠けていたり、
信仰は、付き合いづらい人間にするとでもいうのでしょうか。
まわりから見て好ましく映らない人物像とでもいうのでしょうか。

しかし、キリストに信頼をよせる者から言わしてみれば、
イエス・キリストを必要としている者から言わしてみれば、
キリストの福音は、私たちが人生において出会うだろう問題のすべてに解決を与えるもの、
そうでなくても、少なくともその方向生を変えさせるものだと考えます。

しかし、キリストの福音が、
福音を聞いた人にたいして発する問いかけに耳を傾けることができれば、という話しですが。

耳を傾けることができたときからすべては始まるのです。
信仰を持つ持たないということ以前の問題だということでしょうか。

教会の説教を聞くとき、キリスト教のハウツウ本に目を通すとき、
それらがキリストの教えをあれこれと取り上げることができるということは、
それは、福音がとどいていることを前提としているのです。

しかし、こと日本では、その前提こそが問題なのです。
 ”福音がとどくこと、”
そして、聞き流さず、それを捕らえて、見分けて、さらに言い表すことができての話しなのです。
そうでなければ、常に不確実な前提を前提として話しをすすめなければならないところに、
本当は取り組まなければならない差し迫った問題が隠されているのかもしれないのです。

薬の効能書きをいくら説明されても肝心の薬自体が手もとになければ、
何のための効能書きなのかということでしょうか。

話しをもとにもどして、
福音は、問題のすべてを解決する、少なくともその方向生を変えさせるものなのです。
キリストへの信仰というものは、思考に柔軟生をもたせるものなのです。
冷静にものごとを見られるようになりますし、
広い視野を与え、何が前方に来るのかを指し示すのです。

自分自身が、これだ、そうだ、と思っていることからはなれて、
別として、外の展開を見せてくれるものなのです。
そうでなければ見誤ってしまうことでしょう。

キリスト教では、キリスト・イエスを「ひかり」にたとえます。
「ひかり」のあるところには何があるでしょうか。
ひかりにはものごとを、すみずみまで良く見せる働きがあります。
明るく強く輝くひかりに照らされたものは・・・・、
すべてが明らかにされるのです。

「イエスは再び言われた。
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・8章12節・新共同訳聖書)

かりに、キリストの福音がとどいていたとしても、
あくまで自分の思い描く枠組みや領域に固執するなら、それに従わなければなりませんし、
そこから抜け出すことはできません。
かえって混乱と不安は増すばかりでしょう。

つまり、キリストの福音というものの姿、形をとらえなければ、
イエス・キリストが十字架のうえで死に、葬られ、
三日目によみがえられたという出来事の具体的な意味をとらえなければ、
「福音の神」を、神ご自身によって指し示された方法によって、
見分けて言い表わすことができなければ、何事も前には進まないのです。

「神が私たちのために用意してくださり、
キリスト・イエスによってなされた救いの御業(みわざ)を、
信仰によって受け入れるとき、
神は私たちを恵みによって救ってくださるのである。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章24節・現代訳聖書)

キリスト・イエスがすべての民の罪を肩代わりして死刑となったという出来事から導かれるもの、
自分自身を含めたすべての人間というものは、
だれひとりとして正しい者はいないと思えば、
気がねなく安心して、自分の弱さも、他人の弱さも見つめることができるのです。
そうあればこそ、物事をありのままに見ることができるのです。


北白川 スー

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Wrote up on June 13, 2007.