信仰を持つということは



カトリックのミサに、プロテスタントの礼拝に、
さらには、その他のキリスト教だと言われる団体の集会に集まる人たち、
合わせて、人口比にして、わずか1パーセントです。
統計調査によれば、
かつては教会に所属していたが今は教会から離れている人たち、
そして、教会に属さない自称クリスチャンたち・・・等々含めて、
人口比にして6パーセントという数字があります。

この日本の社会において、ごく少数派のクリスチャンたちが、
信仰を持つに至った理由というものを考えてみますと。

キリスト教の信仰を持つということは、
何らかの出会いがあって、
それがきっかけで信仰を持つようになったと、考えたいのですが・・。
しかしながら、信仰を持つに至った理由はさまざまのようです。

もともと信心深く、信仰心があって・・・。
信心深さの表われから神に出会って・・・。

そんな深い理由はありません。
なんとなくキリスト教の教会に行くようになって、
ながれで洗礼を受けてクリスチャンになりました・・・。

教会に居場所を見つけて・・・。

家がもともとキリスト教なもので・・・・。

それはそれは人それぞれ色々な理由があるようです。

いずれも、はっきりした根拠は無く、状況から判断して、
キリスト教の根本的な考え方を知って、
根本的な考え方によって信仰を持つようになった訳ではないようです。

つまり、福音を聞いて、知って、
その福音の内容を理解し受け入れた上で信仰を持つに至った訳では無い・・・・。

「わたしは福音を恥としない。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、
信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
福音には、神の義が啓示されていますが、
それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。
「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16~17節・新共同訳聖書)

この聖書の記述は、
キリスト教の信仰におけるもっとも中心的なテーマです。
外すことのできないテーマです。

福音には神の啓示が示されており、
神の啓示を信じる信仰によって・・・・・・。
信仰の本質はここにあります。

福音、すなわち神の啓示とは、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いの業(あがないのわざ)
という出来事のことを言います。

良き知らせ・グッドニュースと言われるものです。

では、教会とはいったいどういう所なのでしょうか。
教会は、敬虔な信心深い人たちだけの教会ではありません。
教会は、ただひとりの主、イエス・キリストを持っています。
教会の主は、イエス・キリストなのです。

神が人間のところへ来られて、人となって、
神のひとり子イエスが、キリスト・救い主として、人として生まれて・・・、
ひとりの人間として、
神の究極的な選択と態度の決定という事柄によって、
神のひとり子イエスが、
すべての人間の罪をその身に負い、
すべての人間に代わって裁かれ、
十字架に死に、葬られ、復活したという出来事によって、

この世界の中に生まれたのが教会なのです。
決して、敬虔な信心深い人たちの集まりが教会ではありません。

信仰とは、
信仰のハウツウではなく、
イエス・キリストです。

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)

忘れてはならないのは、
どのような宗教であっても、
信仰とは、暮らしの中に、生きている過程において、
人間の存在と共に存在するものであること。
キリスト教は死者のための宗教ではありません。

キリスト教は、決して信仰することが目的ではありません。
暮らしに経済活動に学業にあっても、
それらの時間の流れの中に存在するものであって、
生き方に暮らし方に人間関係に経済に大きく影響を与えるものです。

どうでしょうか、日本のクリスチャンたちは、
福音を聞いたでしょうか・・・。
イエス・キリストの十字架の死による贖いの業という出来事の、
内容と意味とが説かれ解き明かされた場に居合わせていたでしょうか。
クリスチャンたちに福音は届いているのでしょうか。


北白川 スー

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Wrote up on January 11, 2019.