なぜ教会で語られないのか



なぜ教会では・・主題とされる事柄・・が語られないのか。
キリスト教信仰に於いて、最も本質的であり根本的なテーマが、

それは、神の啓示の出来事です。

「 実に、信仰は聞くことにより、
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)

教会の礼拝では、牧師が説教をします。
その意味するところは、

人間が、・・神に聞く・・という、この一事によって、
主体が私たちにあるのではなくて、
神が人間に向けて語られているが故に・・・、
私たち人間は、聞かなければならないのです。

神が人間に向けて語られている言葉を聞くという一事によって、
私たち人間は、基礎づけられ、支えられているのです。

神の啓示の出来事が語られることによって・・・・・。

私たち人間のところに来られた、
・・神の言葉であるところの・・神のひとり子イエス・キリストの、
出来事から聞くということ・・・・。

ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死による贖いの業という出来事、
・・あがないのわざ・・という出来事から、
私たちは、父なる神の意志というものを、
創造主なる、私たち人間をも造られた、
神の人間にたいする選択と決断と態度の決定という出来事から、

神に聞くという一事から、
教会もクリスチャンも生まれたのです。

どうも日本のキリスト教は、
根本的なところを置き去りにしてきた結果、
いつまでたっても、
1パーセントのハードルを乗り越えられないでいる・・・・。


北白川 スー

関連記事・「イエス・キリストの十字架」

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Wrote up on March 09, 2019.