主イエスと共に生きるかどうか



インターネットの世界で少しでもイエス・キリストの福音を伝えることができればと思い、 2004年にホームページを開いてから早いもので2019年となりました。

ノンクリスチャンに向けて福音を語ろうと思っていたましたが、レスポンスは意に反してクリスチャンからのものが多く、 悩み多いのは、なんとクリスチャン自身なのだと痛感させられています。

日本ではクリスチャン人口と言えばいまだ1パーセント未満の小数派です。
プロテスタントともなれば、さらに少なく、0.3パーセントです。
別の信頼できる統計調査では、自称クリスチャンを含めて、6パーセントという数字もあります。
その数字は何を物語っているのかと言えば、イエス・キリストを受け入れ信仰を持ったものの、
何らかの理由で教会から離れてしまった方や、
イエス・キリストを信じてはいるけれど、
教会の礼拝には行ったことのない方の多さではないでしょうか。
そうであっても、未だ大多数の日本人に”福音 ”は伝わっていないと考えてもいいでしょう。
語られていても右から左なのか、それとも語りかたが足らないのか・・・・。
なんとも謎だらけです。

イエスは彼らにこう言われた。
「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」

 (新約聖書・マルコによる福音書16章15節・新改訳聖書)

しかし、喜びをもって福音を語り伝えるはずのクリスチャン自身が、
不安と混乱とあせりと悩みの中にあるのだから。
これでは福音は広まらないのもうなづけます。

イエスは言われた。
「 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、
「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。」

(新約聖書・マタイによる福音書14章31節・口語訳聖書)

主イエスは、私たちを愛し、つねに私たちと共におられます。
それなのに、愛されていない・・、認められたい・・、生きている意味が分からない・・等々。
主イエスと共にある喜びほど大きなものはないはずなのに・・・、
主イエスを知っている喜びはどこへ行ったのでしょうか。

クリスチャンたちよ、あなたを混乱させ、焦りや迷いやねたみを生み出しているのは、
あなたを取り巻く状況でもなく、まわりの声でもない。
あなた自身の心の中にある、そこから抜け出すことをためらわせるあなたの心なのだ。
なぜ、そこから抜けだそうとはせず、あえて逃げ込もうとするのか。
居心地がいいのか。いや、そうではなく苦しく痛いはずだ。
そこから抜け出す決意をしなければ、
救いもなく、あなたを助ける者などどこにもいないことを知らなければならないはずです。
イエス・キリストを、あなた自身の主権者だと信じたのなら、
あなたの混乱した心の中に ”主イエス”を迎えなさい。
主イエスと共に歩む暮らしを取り戻しなさい。
あなたに問われているのは、
主イエスと共に生きて行くのかどうかなのです。
イエス・キリストこそ、
孤独の中にあって、ひとり、はずかしめと十字架の責苦と死とを受けられたのではないのか。
孤独の苦しみを限りなく知っておられるのは主イエスご自身ではないのか。
そのイエスと共に歩むことによって、
あなたにむかって、イエスご自身の助け手が差し伸べられるのではないのか。
それこそが、ゆるしであり、救いであり、いやしではないのか、
何のためにイエスは十字架の上で死なれたのか、考えなおしてみようではないか。
あなたに差し出されているイエスご自身の御手を見いだそうではありませんか。
その手をつかもうではないか・・・。
主イエスは、私たちと共におられ、生きている者の神です。


・・イメージは、京都山科カトリック教会において・・

北白川 スー

表紙にもどります。

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Wrote up on September 18, 2019.