アラが見えてきた、結婚生活
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彼と彼女が付き合っているときには、相手から見ても、相手の親から見ても、
「いい子いい子」に見えるものです。
その人の本性というものは表に出てきません、
そして結婚してからのち、
実生活の中でアラが見えてきて「そんなはずではなかった」ということになります。
すなわち、恋愛時代というものは、本当の日常の姿を相手には見せないので、
結婚してから、それが露呈してくることになれば、そんなはずではなかったということになります。
それが原因で離婚というケースは、後を絶ちません。
恋愛時代というものは、二人がお互いの愛と誠実さ・・・、そこがくせものなんですね。
二人の恋愛時代のお互いの行動や言動の中には、偽りやうそ、
ごまかしなどがまったく無くて自分の良心に従っているとは限らないのです。
当人が気付かなくてもです。
または、偽りやうそに塗り固められた恋愛時代というものさえ、
お互いの中に築こうとする傾向も見られるのです。
クリスチャンなら、そのようにアラが見えてきても、お互いをゆるすことができます。
またそうでなければ信仰ある者とはいえません。
なぜかと言えば、イエス・キリストが与えられる、いましめとしての愛は、
人間の心から出てきたものではないからです。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
(新約聖書・ヨハネの福音書・13章34節・新共同訳聖書)
イエス・キリストは、人間の持っている本性というものを取り扱われます。
イエスの前では、罪深い、愚かな人間であっても、そうであることを認められるのです。
すなわち赦しを受けられるのです。
イエス・キリストに出会った者なら、
その人の持っている本性というものは、
イエスの前で明らかにされ、白日の下にさらされ、
すっかり暴露され、明らかにされることによって、
その捕らわれから解き放たれるのです。
キリスト・イエスは、私たちを自分の罪の認識へと導かれます。
使徒パウロは、ローマの信徒への手紙で語っています。
「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、
それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」
(新約聖書・ローマ人への手紙・7章19〜20節・新改訳聖書)
私たちは、自分の罪を言い表すことが、自由への解き放ちへの第一歩なのです。
それなくして私たちの赦しはありえません。
「私は、ほんとうにみじめな人間です。
だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」
(同24節)
「こういうけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められること決してありません。」
「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、
罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」
(同8章1節2節)
「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、
あなたがたのうちに住んでおられるなら、
キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、
あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、
あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
(同11節)
イエス・キリストが十字架の上で死刑になった出来事は、
私たちの罪をイエス自らが身代わりとなり贖ってくださった出来事なのです。
そして三日目によみがえられたことにより、
私たちも罪からのよみがえりにあずかることができるのです。
人間というものは、人間の罪を決してゆるしません。
しかし、イエス・キリストは、その罪をゆるしてくださるのです。
「そんなはずではなかった」とは、ゆるしていないということですから。
人をゆるせないということは、悲しむべき、またみにくいことでもあるのです。
人をゆるせることの素晴らしさを味わってみませんか。
それは、自分もゆるされたという喜びから始まります。
北白川 スー
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Wrote up on March 07, 2005.