クリスチャンが、葬式や法事の席で



クリスチャンが、葬式や法事の席で、
クリスチャンは、付き合いが悪いとよく言われます。
自身の利害にかかわりなく、人として行うべきものとして。
つまり、義理でする付き合いのことですが。

仏式の葬儀式や法事などで、
クリスチャンは、死者にたいして香をたむけることをしません。
仏前に香をささげることをしません。

一般的には、遠くへ旅立つ死者にたいしてお香をささげるわけですが、
クリスチャンは、死者に対しても拝礼はしません。
死者を、おがみません。

葬儀式に出席しても死者にたいしては礼をつくしません。
しかし、死者の家族たちは、悲しみにの中にあるわけですから、
悲しみに打ちひしがれている家族の気持ちを思いはかり、
あたたかい言葉をかけることはします。

しかし、死者の霊にたいしては、
つまり、死者の霊をなぐさめることは決してしません。

キリスト教の根本的な教えにかかわることですから、
そのようにするわけです。

日本の古来からの民俗信仰では、
人は死んでも霊魂は生き続けると信じられています。
人が死んで次の生を受けるまで、死者の霊魂は不安定な状態なのです。
ですから、てあつく死者を葬るわけです。
そして、その霊魂は子孫を守護する祖霊となります。

祖霊にたいする供養が法事ということになります。
法事の行事には、さらに大きな要素が加わります。
日本人の意識には、
家意識を基本とした、血縁関係の共同生活というものを大切にしています。
法事に出席することは、家や血縁で結ばれた、
共同体の一員としての責任を果たすこと、
つまり義理を果たすことになるのです。

クリスチャンは、
私たち人間は、この世界を造られた創造主によって創造され、
人生を終えると、命を与えてくださった神の元へ帰ると考えますから、
人間は、死ねば、
この混乱した世界から、平安な天へ、神のもとへ帰るのですから、
それは喜ばしいことなのです。

クリスチャンの死は、目覚めるために眠りにつくのです。
眠りと目覚めとのタイムラグはありません。
眠りに入るのと同時に目覚めるのです。主イエスの前に。

「・・・・私は裸で母の胎から出て来た。
また、裸で私はかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな。」

(旧約聖書・ヨブ記・1章21節・新改訳聖書)

世間社会では、クリスチャンが、法事や葬儀や、神事などで、
自分の都合で世間向きの義理を欠くことは、
家や血縁で結ばれた共同体にとって許されることではないと考えられています。

ここで明確にしておかなければならないのは、
クリスチャンが、法事や葬儀や神事において取る態度や行動は、
基本的に宗教的な意味を持っています。

それに比して、
クリスチャンが、それらの行事にたいして義理を欠いていると見てとられるのは。
そこには、何ら宗教的な意味を見出しているわけではなく、
共同体の秩序を乱されては困るという意識なのです。

クリスチャンの女性が、ノンクリスチャンの家に嫁いだとき、
よく問題にされる、法事や葬儀や神事にたいして礼を欠く行動や態度をとるのは、
それは、あくまでキリスト者としての宗教的な態度なのです。

ときとして、そのような態度を批判されるわけですが、
そこに働いている意識は、
あくまで共同体の秩序を乱しては困るという意識が働いているのです。
よくよく観察すれば、
”重要な争点の違い”ということになります。
まったく違った土俵で相撲を取っているようなものなのです。
共同体の秩序を問題にする者と、
宗教的な意味を問題にする者との・・・。
まったく争点はすれ違っています。

言い方を変えれば、
神との契約と、
対社会的な秩序維持を目的とした取引との違いなのです。
もちろんクリスチャンは、神との契約の上に立っています。

「食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。
この杯は、あなたがたのために流される、
わたしの血による新しい契約である。」

(新約聖書・ルカによる福音書・22章20節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on December 06, 2010.