嫁を取る、嫁入り、嫁を迎える



クリスチャンの数が極端に少ないこの日本では、
クリスチャンの結婚ともなれば、
いろいろと心を痛める問題が多くおきてきます。

もともと日本では、古代から、万葉の昔から、
男が女の家に入るのが習わしでした。
現代は、女性が男性の家に入ることが一般的です。

しかし、実際は、
家庭で形成されるのは、
女系であり、母系です。
家庭では女性の方が権力を持ち強いのですから。

ですから、クリスチャンの女性が、
ノンクリスチャンの家庭に嫁げば、
当然のこととして、嫁姑の問題がおきてきます。
それに宗教的な問題までからんでくるとなれば深刻なのです。

どこの家庭でも、その家庭を束ねている価値観は、
つまり、血縁、地縁などで結ばれている共同体を守るものとして、
家族や親戚といった共同体の秩序を維持している思想は、
信仰です。
神道の習いや、仏教の習いなのです。
先祖の霊・祖霊や、死者への畏敬の念といったもの、
年末年始の習いや、お盆の習いといった作法や所作なのです。

誕生に始まり・成人・結婚・病気・死亡・法事といった
すべての人生の流れの中に重くその地位を占めています。
おおむね、それらを仕切っているのは、
その家の母です。
嫁を迎えれば、
当然のこととして、それらを継承してくれるもの、
そうであるものと決め付けられているはずです。
母が死ねば、嫁が受け継がなければ、
その共同体の秩序は維持されて行かないのですから。

それがその家庭だけで済めばいいのですが、
どういうわけか親戚まで巻き込んでいきます。
まわりの親戚も、そうあるべだ、当然だと考えているからです。
親戚・親族一同の付き合いという共同体意識の例として、
必ず、跡取りが、祖先の霊を守らなければならないのです。
祖先を祭り、法事をとりおこなう責務を負うわけです。

共同体の人間は、互いに助け合い、助け合われているという関係・・・。
これが日本の精神生活であり、
日本という社会、世間の秩序を維持し、
支配してきた知恵でもあるのです。

その中に、
まったく正反対な精神性、精神生活を持つキリスト教の信仰が、
入り込むとなれば、
それは、その共同体にとって一大事であり、
混乱を持ち込むものと認識され、排除されなければならないものなのです。

その意味でも、キリスト教の教会の位置や立場は大きいのです。
決して、駆け込み寺であってはいけません。
情報を発信するところでなければならないのです。
それが聖書的な教会の位置づけです。

地域社会において、
際立った存在として、
キリストの福音という情報を発信する中心とならなければならないのです。
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という情報を
発信するところとして。
そうであってこそ、地の塩となり、光輝く存在となるのですから。
キリスト教信仰が、今ある日本社会の精神性に、
取って代わらなければならないのですから。

しかし、教会が、今を変えることを拒み続けるなら、
日本の福音化を拒み続けるなら・・・。

まだまだ少数派のクリスチャン、
クリスチャンの結婚の救いは、まだまだ遠い・・・・。

「わたしは福音を恥としない。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、
信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on November 20, 2010.