結婚について考える



クリスチャンの結婚についてあれこれと考えていますと、
日本の一般的な結婚の形態について考えてみる必要があるのではないかと・・・・、
そのように考えることが重要ではないかと・・・。

日本で普通に執り行われている結婚は、
人生においてたいへん重要な契約のときであるわけです。
約束を取り交わすことによって人と人との人間関係を強固なものにしょうとするものです。
結婚という習いは、そうすることになっているものとして、
共同体の秩序を維持するための知恵でもあります。
しかし、それ自体、取り立てて問題にするほど珍しいものではないとされています。
当たり前ということでしようか。

日本の結婚の形態は、
婿取りであっり、嫁取りであったり・・・と、
現代では、女性が男性の家に入ることが一般的です。
結婚式では、
神社であっあり、チャペルであったり、
本物のキリスト教の教会であっても、ホテルのチャペルであっても、
結婚式専用のチャペル事業所であっても、
チャペルでは、神と神の教会の前での男女の契約を交わすことになります。

神社では、杯を受けることによって、神の前で一生の約束を交わすことになります。
しかし、よくよく観察しますと、
男性が受けた杯を女性が受ける・・、
男性が先に杯を飲み干してから、続いて女性が杯を受けます。

その意味は、
女性が男性に誓うという形になっているのです。
女性が男性の家に入るという契約なのです。
しごく当然な習わしとして行われているようにみえますが、
言い換えれば、”嫁入り婚 ”なのです。

強い言い方をすれば、
女性の男性への従属を意味しているのです。
もっと強い言い方をすれば、
男性方の家族への従属を約束させられるのです。

嫁入りした家の生活秩序を乱されては困りますから、
嫁入りした家の一員としての責任を果たさせなければなりません。
その家が大切なものとしている習慣や慣習や習いなどを、
当然なものとして受け入れることを求めるのです。

キリスト教の結婚観は、
神と神の教会の前での契約ですから、
聖書・バイブルは次のように語ります。

「・・・こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」
(旧約聖書・創世記・2章24節・新共同訳聖書)

この世界を造られた神の前での、
個人と個人との関係の上で、神にたいして契約することになるのです。
それは、新しい家族の誕生なのです。
言い換えれば、新たな創造なのです。

一方、嫁入り婚は、
個人と共同体との関係の上に約束と契約が求められます。
そうでなければ、共同体の秩序が守れないと考えます。
ですから日本では、○○家と○○家との結婚ということになるのです。
共同体の秩序維持が、最も大切な事柄として認識されているのです。

日本という社会では、
個人と個人の関係ではなく、
個人と世間という関係の上にすべての社会的な秩序が成り立っています。
その中に、キリスト教的な人生観や価値観を持ち込むとなれば、
まず、”あつれき”や”きしみ”が起きてきても不思議ではありません。

この日本においては、個人と個人との関係ですべてがOKとはならないのです。
世間体、世間並み・・・、
共同体の一員として義理を果たすことを強く求める社会ですから。
では、どうすればいいのか・・・・。

「わたしは福音を恥としない。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、
信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
福音には、神の義が啓示されていますが、
それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。
『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16〜17節・新共同訳聖書)

キリスト教の教会が、教会のまわりの社会にたいして、
キリストの福音を持って大胆に切り込んでいかなければなりません。
そうでなければ、結婚について悩んでいるクリスチャンの救いにつながらないのです。
キリストの教会が、すべての人のあこがれの存在にならなければ、
少数派に甘んじている現実から抜け出すことできないでしょう。


北白川 スー

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Wrote up on November 08, 2010.