教会を、何か貸し結婚式場のように思って
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教会にはときおり思いがけない電話がかかってきます。
教会を何か貸し結婚式場のように思っての問い合わせなのです。
結婚というものは、クリスチャンであってもなかっても、
人生において最も大きな出来事に違いありません。
しかし、そこには、信仰ある者と未信者とでは大きな認識の違いというものが存在しています。
ホテルには、しゃれたウエディング・チャペルがあって、
そこで牧師や司祭を前に、永遠を誓い、結婚指輪の交換をする、
そして披露宴会場にところを移して、盛大な一世一代の大イベントへと進みます。
大勢の人を集め、豪華なフランス料理にスモーク、キャンドルサービス、
度重なるお色直し・・・と誰もがそのように想像するものです。
これが一般的な結婚式模様でしようか。
男と女の出会があって、お互いの愛を見いだし恋に落ち、
そして、お互いのため生きようと思うようになります。
そして、二人の人間が死によって二人を分かつまで、一緒に生活しようとお互い心に決めるわけです。
そこにあるものは、二人だけの意志と、二人だけの道とを見いだしただけなのです。
そして、相手の中に、お互いの幸せを見いだそうと、お互いの幸せを求めようとします。
二人の人間が一緒に生活して行くということは、
二人の意志が「ひとつに」なることがその絶対条件です。
ですから自分の意志を優先しようとか立てようとか、
そのために相手の意志を求めようとするならば、それはうまく行くはずがありません。
では、キリスト教信仰では、婚姻とか結婚という出来事をどのようにとらえているのでしょうか。
日本の社会では、家と家との婚姻ということを第一に考えますし一般的です。
ですからこれからお話しするキリスト教の結婚に対する考え方は、まだまだ受け入れられてはいません。
キリスト教では、二人の意志が「ひとつ」になるただひとつの確実性は、
その二人にはなく、神のみこころにかかっていると考えます。
ですから、婚姻というものは、「神と神の教会の前で」ということになるのです。
神と神の教会の前での婚姻ということは、二人を神の教会の一員に加えてくださることを意味します。
そして、神の祝福の下で、
神は二人の人生のすべてにわたって神の秩序、神の支配の下に保証されるのです。
ですから、その結婚が、何者にも揺るがせることができない何よりもの根拠は、
二人の意志や、道や、志しにあるのではなく、イエス・キリストにあると考えます。
互いへの愛ではなく、神の秩序と定めによる婚姻というものが、
男と女を、神と神の教会の前でひと組の夫婦にするのです。
聖書が語る婚姻というものは、神の定めと秩序によるものとされ、
神ご自身が結婚の制度を定められ、神が夫と妻のお互いの愛を祝福されるのです。
「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」
(旧約聖書・創世記・2章24節・新改訳聖書)
一般社会では、当事者の二人が、お互いの愛と誠実さとを互いに約束しあうことが結婚とされています。
そのお互いの思いが、どれほどまでに真剣なものであるかは分かります。
しかし、聖書は、人間の本性というものが、
どれだけ弱いものであるか、不安定なものであるかを指摘していますし、
さらに、その人間の愛や誠実さというものの本当の姿を、本性を、
私たちは何も知らないのだということをも指摘しています。
結婚というものが、
そのような不安定なものの上に成り立っていることを知らなければならないのです。
ですから、結婚というものは、神の助け無くしては成り立たないのです。
そこに「神と神の教会の前で婚姻する」という意味が明らかにされるのです。
さらに、結婚においても、だれしも将来にたいする不安というものはあるでしょう。
しかしクリスチャンは、
将来にたいするあらゆる心配や不安というものから解き放たれ、自由にされています。
それはキリスト・イエスの十字架の出来事によって、
不安や心配や苦しみから解き放たれたと信じるからなのです。
イエス・キリストに下で、二人は人生を共有し、イエス・キリストとともに歩んで行くのです。
それがクリスチャンの結婚というものです。
愛というものは、お互いから来るものだと思っているでしょうが、
聖書が語る結婚生活というものは、上から、すなわち神から来るものであると言っています。
神が人間よりはるかに高みにあるように、
神の定めた結婚生活の神聖さと約束とは、二人の愛の清さや約束よりもはるかに高いものなのです。
二人の愛が結婚生活を支えるのではなく、神が定めた婚姻が二人の愛を支えるのです。
それがキリスト教における婚姻というものの原則です。
お互いの愛がすべてだと思っているのなら、それは、まったくの勘違いです。
二人の意志ではなく、また個人的な思いではないことを知らなければなりません。
結婚においても、聖書が求めることは、つまり神の意志は、
まず神の義と神の国を求めること、そうすれば、すべてのものはそれに添えて与えられるのです。
「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
(新約聖書・マタイの福音書・6章33節・新改訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on March 08, 2005.