クリスチャンが結婚しない理由



教会の集まりで、結婚適齢期にさしかかったクリスチャンの、
結婚相手を見つけることの難しさというものを良く耳にします。

日本の人口のわずか1パーセントにも満たないキリスト教信者の中で、
適齢期をむかえた青年たちが相手に出会うチャンスというものは、
その数字に匹敵するくらいわずかなものでしかないのです。

それが理由でなくても、結婚しないクリスチャンがいます。

クリスチャンが結婚しない理由というものは、
結婚に、安定した暮らしとかロマンとか夢とかというものを求めないからなのです。
結婚によって小さな家庭に縛られるよりは、
はるかに越えた信仰というものへのキャリアを積み重ねたいと願っているからなのです。

日本のように、人口の中で1パーセントにも満たないクリスチャンが、
社会の中で、ひとにぎりの勢力しか保有していないところでは、
お互いに信仰のキャリアを積み重ねていくことのできる結婚相手を捜し求めることは、
万の一の確立に等しいのです。

そしてクリスチャンから見れば、現代日本には自由な根がなく、不安によって彩られています。
しかし、キリスト教信仰には、しっかりとした根と安定性があるわけですから、
しいて不安定なものへ移行しようとは思わないのです。

日本社会の結婚観というものは、あまりにも制約をつくりすぎています。
地位や家柄など、横のつながりの中で小さな集団を守るという制約にこだわり過ぎて、
本来的な男と女の結びつきという根本的なことはどこかへ行ってしまっている社会であり、
実質的にいろんな制約を他人がつくってしまう社会なのです。

ですから、それらから離れて、
それらに制約されないクリスチャンどうしの結婚というものを求めても、
たかが1パーセント以下の人たちの中から、
自分にあった相手を探し出すということは至難のわざなのです。

使徒パウロはコリントの信徒たちへ語っています。
「独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心をつかいますが。
結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、
世のことに心をつかい、心が二つに分かれてしまいます。
独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心をつかいますが、
結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世のことに心をつかいます。」

(新約聖書・コリント人への第1の手紙・7章32〜34節・新共同訳聖書)

それに厄介なことに日本に存在する色々な教派や教団の教会は、
お互いの交流というものが余りありません。
教会の教師は、教派教団の垣根を超えた交流を勧めません。
ですから、教派、教団を越えた信仰ある者の交流というものも希薄だということになります。
ここら辺りが日本的なのでしょうか。
分かりませんが、キリスト教信仰が広まらない理由のひとつかもしれません。


北白川 スー

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Wrote up on February 08, 2005.