クリスチャンの結婚・最も大切なこと
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常に日本の結婚話しの中核となることは、
嫁を取るとか嫁にやるとか、婿を取るとか・・・と。
一家と一家との間の人間のやり取りによって、その家と家とを結び合わせて行くことによって、
小さな集団に血縁関係を作り上げて行くことになります。
それを親戚付き合いとでも言うのでしょうか。
それが日本では長年にわたって習慣となり、
社会一般が共通に持っている考え方となったのでしょう。
この連載では、信者と未信者との結婚というテーマで考えています。
教会の内外で、このケースの結婚話しの中で、話しが進行していく中で必ず起こってくる問題、
そして常にその中心に位置づけなければならない事柄があります。
それは次の事柄に集約されます。
クリスチャンと結婚しようとしていること、
そして教会で、
神と神の教会の前で婚姻をしようとしていること、この二点に尽きます。
しかし、どういうわけか、これらのことが、あまり真剣に取り上げられないケースもあります。
神と神の教会の前で男女が夫婦関係を結ぶという、すなわち婚姻するということは、
それは、神ご自身が定められた秩序だということです。
旧約聖書・創世記2章において語られる、神において定められた秩序です。
新約聖書においてイエス・キリストは語っています。
「創造者は、初めから人を男と女に造って、
『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれる、
ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。
「それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。
こういうわけで、人が神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」
(新約聖書・マタイの福音書19章4〜6節・新改訳聖書)
男女が出会って恋に落ち・・・そして、お互いの愛を確認しあうわけですが、
その愛が唯一のものだと勘違いすれば、
この神の定められた秩序は、どこかへ行ってしまいます。
神は、神の愛によって、二人の結婚生活を導かれるのだということを忘れてはならないのです。
ですから、二人を引き離してはならないのです。
お互いの愛ではなく、神の定めた婚姻という秩序が、
二人を神の前で一組の夫婦にするということです。
これこそが、「神と神の教会の前で」という意味です。
日本社会一般において持たれている通念から、なんとかけ離れていることでしょうか。
未信者にとっては理解しがたいことなのです。
また家と家との婚姻という日本が伝統的に持っている価値観や考え方に対して立ちはだかる、
神の愛への大きな壁なのです。
民間の結婚式場に併設されたチャペルで、
司祭や牧師が、この創世記から導かれる神の秩序や定めを説教されますが、
当の二人や、その結婚式に招かれた家族たちは、
そこで語られる、神の愛の大きさというものを、どれだけ理解されていることでしょうか。
しかし、クリスチャンは、自分の所属する教会において、神と神の教会の前において、
この神の秩序と定めにのっとり二人は結ばれるのです。
その特権にあずかっています。それは素晴らしいことです。
パウロもエペソ人への手紙で言っています。
「それは、前からキリストに望みを置いている私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。」
(新約聖書・エペソ人への手紙・1章12節・新改訳聖書)
神と神の教会の前で結ばれた者どうしは、
キリストによる結婚生活という基礎の上に立って、
キリストにより一生涯、見まもられ祝福され、キリストと共にある暮らしにおいて、
キリストの愛に包まれた人生を送るという栄誉に恵まれるのです。
信者と未信者の間には、たしかに考え方の違いがあります。
しかし、この神の大きな愛については異論を挟む余地などありません。
もし異議を唱えるならば、その結婚というものは祝福されたものとはならないでしょう。
北白川 スー
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Wrote up on March 03, 2005.