クリスチャンの結婚・男一般、女一般



クリスチャンと未信者との間で、結婚を前提とした交際が進んでいるときの話しです。
今回のテーマは、
未信者のほうが、相手がクリスチャンであっても、
特別な存在ではなく一般的な男性・女性と同じだと思っているということです。

未信者にとって、等しく人間にとってイエス・キリストの存在の大きさというもの、
キリスト信仰というものはどのようなものなのかという知識を持ち合わせていないわけですから、
そのように思われても仕方がないのです。

教会では、未信者と結婚することは、信仰ある者とない者との結婚生活は問題をはらんだ、
とても大変なことなのだと教えますから、その覚悟というものは伝わってきます。

しかし、未信者の側では、
クリスチャンと結婚するということは、大変なことなのだ・・・。という感覚は、わずかもありません。
ごく一般的な男と女の問題だと見て取っています。

交際が進んで行きますと、
そのクリスチャンが所属する教会や教会員たちは、またそのクリスチャンの友人たちは、
事の大きさを認識した上で、祈りあったり、はげましたり、助言を与えたりします。
時として、未信者の相手を含めた、
聖書を基調にした「結婚へ向けての学び」というプログラムまで用意して、
その結婚に対しての態度を鮮明にしてきます。

キリスト教では結婚というものを、
「神の定めた婚姻という秩序によって、二人を神と神の教会の前で一組の夫婦にする」
という立場を守ります。

「創造者は、初めから人を男と女に造って、
『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』
と言われたのです。
「それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。
こういうわけで、人は神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」

(新約聖書・マタイの福音書・19章4〜6節・新改訳聖書)

婚姻というものは、お互いの愛ではなく「神の定め・秩序」の上に立ちます。
神の秩序の上に立つ以上、
日本古来の伝統や格式や一家や一門や血脈というものは立ち入る隙間を与えません。

当然、交際が進んで行きますと、
未信者のほうに、これらの事が明らかになってきますから、戸惑いが生まれてきます。
なぜ、信仰というものを、そんなにも大事・オオゴトにしなければならないのか分からない・・・。

通俗的なことを言いますが、
日本の男性は女性を獲得すれば、その女性に対する興味を失うものです。
男性は女性を獲得するまでのプロセスにエネルギィーを消費します。
またそれを喜びとさえします。
逆に、女性にとっては、これからがスタートであり二人の愛は継続していくものと考えます。
一般の世間でも、この違いが結婚生活に大きな影を投げかけることになるのです。

大胆に書きましたが、
男性が未信者である場合は、このあたりの事情が、今後に大きな影響を与えることになります。
交際が進んでいきますと、未信者の男性は、
少しづつキリスト教のことが見えてきますから、戸惑いが沸き上がってきます。

言い方を変えれば、良かれ悪かれ「福音」に近づいたということです。

ここで未信者の男性は気付くことになります。
ことは、自分の予想から期待から大きく離れてしまっていると・・。
ことは思わぬ方向に展開になってきたと・・。

この未信者の男性がキリスト教へ改宗することが、
祝福された結婚生活を送っていくために必要不可欠なものなのだということを、
この女性を獲得するために、キリスト教へ改宗しなければならないなんて・・。
二人の関係とは別に、おもしろくない厄介な問題が横たわっているなんて・・・。

既婚者なら理解できることですが、
夫婦が同じ価値観を持つこと、
それは結婚生活を送るうえで最も大切なことであることを。


北白川 スー

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Wrote up on September 13, 2005.