お互いのすれ違い・クリスチャンの結婚



キリスト教信仰のありのままの姿を知らない人と、クリスチャンとが結婚に向かって、
お互いの家族の了解のもとで付き合いを始めているときに、浮かび上がってきたことです。
それは、お互いさま、ということであるのかもしれません。

例えて言えば、・・・外国の方には失礼かと思いますが。
・・「外人なのだから、
時間をかけて徐々に生活習慣になじませて、染まって行ってくれればそれでいい。」・・
時間をかければ、
キリスト信仰というものは薄れて消えて無くなってしまうと言ったような期待と見込みを、
クリスチャンを抱える家族も、そうでない家族もお互いに思い描いているようです。

キリスト信仰についての知識を持ち合わせていないことから来た希望的な観測なのです。
クリスチャンと言われていても時間がたてば、
熱が冷めてキリスト信仰を持つ前の状態に戻るだろうという望みや想像や観測があります。
しかし、分かりませんが、その裏には深刻な問題が隠されているのかもしれません。

または、キリスト信仰の深さや強さ、
なぜ信仰を持つに至ったかという根本的な事柄にたいする認識の無さと、
信仰に対する誤解の産物なのかもしれないのです。
そうであるなら、言うまでもなく、
クリスチャンが、未信者にたいして、はっきりとした態度を取ることの大切さが求められます。
そうでなければ、誤解のまま、ボタンをかけ違えたままになるのですから。

厳しい言い方ですが、パウロが書簡の中で語っています。
「彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている。と言っているのです。
私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。
あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。
主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。」

(新約聖書・コリント人への第一の手紙・10章20〜21節・新改訳聖書)

イエス・キリストの十字架の出来事により、
神との和解と赦しを得た者が、再び罪の奴隷に、重いくびきを負うことなど考えらません。

わたしたちの生活ともなれば、
人生の節目節目に、
誕生・学齢・成人・結婚・普請・病気・災害・葬儀・法事・というものが待ちかまえています。

また四季それぞれに正月やお盆など、色々な祭りごとが待ちかまえています。
現在の日本では、それらの祭りごとは、ほとんどが仏式か神事で執り行われているのが常でしょう。
それらは家族にとって生活を営んでいく上で必要不可決なものとして位置づけされているはずです。

しかし、キリスト教としては、それらは生活上のことだからと片づけるわけには行かないのです。
その祭りごとの中に「霊的なもの」霊的な存在を認めているからです。
それらの祭りごとを通して、霊的な支配が存在すると考えているからなのです。
いわゆる「悪霊」そのものが、それらの祭りごとを借りて、
その中に姿をあらわし、人々を囚えていると考えます。
ですからクリスチャンとしては、確固たる態度でのぞむのです。
時間をかけて生活習慣に馴染んでもらって・・・などという期待と見込みは、
的はずれのなにものでもありません。


北白川 スー

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Wrote up on August 30, 2005.