クリスチャンの結婚、恋愛は誤解から始まる



未信者の男性とクリスチャンである女性との結婚というケースを考え続けています。
このカップルは、その両者の間にある大きな誤解と思い違いが浮き彫りとなり、
その違いがますますはっきりしてきました。
互いに向いている方向が異なるということが明らかになってきたということでしょう。

個性や感性の異なる者同士が、どうやってその違いから一致が生まれ、理解を育て、
互いの愛を築きあげることができるのでしょうか。

ある人は、恋愛は誤解から始まるとも言っています。
恋愛の過程には、さまざまに行き違いも起きくるものなのです。

ごく一般的な、男性と女性の出会いを考えてみましょう。
極端な例になるかもしれませんが、あながちそうではないと否定できるものではないはずてす。
男と女との出会いがあり、付き合いが始まり、
相手にたいして互いに抱き合う感情というものについて考えてみますと、
クリスチャンであろうが未信者であろうが、
実際には有り得ない、実際には起こり得ない相手の姿をつくりあげたり、
相手が与え得ないものを相手に要求するようになったらどうなるでしょうか。

男性は、相手の女性に自分の願望を重ね合わせて、
そして無条件に受け入れられるものと思っているはずです。
またそうなるものと思い込んでいます。

要求したものは与えられると思っているし、
自分にとって厄介なものはすべて除かれると思い込んでいます。

男性は、自分にとって邪魔になる束縛などはなく、
彼の望む、彼の思い描いた好みの女性になってくれるもとの思い込んでいるのです。

かたや女性はどう思っているのでしょうか。
一言でいって、彼との出会いは、運命的なものだと思ってはいないでしょうか。
または、乗り越えるべき美しい試練のようなものとしてとらえてはいないでしょうか。

男性であっても女性であっても、信仰があるなしにかかわらず、面倒な現実は取り除かれ、
望むものをかなえてくれる対象として互いに見ているという
とてつもない思い違いがあるのではないでしょうか。

それは、お互いさまにということなのです。
ここに、行き違いの大きな原因がひそんでいます。
しかし、互いに有り得ないものを求め合うことから恋愛感情というものは始まるのかもしれません。
望み得ないものを相手に思い描き、求めることから恋愛というものが始まるのかもしれません。
相手に自分の理想像を重ね合わせることから、相手を美化していくことから始まるのかもしれません。

しかし、その食い違いが鮮明になってくれば、そこには混乱と不安が待ちかまえています。

クリスチャンというものは、イエスを自分の「主」と公に告白し、
主に聞き従うことを信仰の柱とし、
キリストのからだの一部となった人間です。

「あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。」
(新約聖書・コリント人への第一の手紙・12章27節・口語訳聖書)

そして、人間は経験から学ぶことが多いのですが、
クリスチャンは、聖書の言葉を教師として、
自分自身と対比したりして自分自身を見つめ検証し事実を明きらかにすることができますし、
その中から教訓を学び取ることもできます。

何事においても、信仰の礎になっている聖書の言葉に立ち帰り、
その言葉の上に立つことができるのです。

しかし、未信者にとっては、それはまったく理解できない事柄なのです。

未信者の男性であっても、クリスチャンである女性であっても、
相手は自分の思い通りになると勘違いしているし、
クリスチャンの女性は、
彼がいつしか信仰を持つことになるだろうというわずかな希望を抱いているはずです。

二人の間の混乱が現実のものとなったということは、結婚というものは、
わずかな希望の上に成り立つものではないということを教えているのではないでしょう。

結婚とは、神と神の教会の前での結婚を意味します。
結婚とは、二つの意思が一つになる時でなければ、うまく行かないものです。
自分自身の意思を立てようとしたり、
実際にはあり得ない姿を相手に求め、
相手の意思を求めようとすると、結婚というものはうまく行かなくなるものです。

二人の意思か一つになるただ一つの可能性かつ確実性というものは、
二人にはなく、神のみこころにかかっていることを知らなければならないのです。

この結婚が、ゆるがないものとなるための確実性は、
二人の愛や志しにあるのではなく、イエス・キリストにあることを知らなければなりません。

イエス・キリストの十字架の出来事と、あなたの結婚とは別のものですか。
結婚という事柄であっても、
「まず神の国と神の義とを求めなさい。
そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」

(新約聖書・マタイの福音書・6章32節・口語訳聖書)

二人の心が一つになるのは、イエス・キリストの前にあるときだけなのです。
それが神と神の教会の前にという意味なのです。
イエス・キリストを欠いた結婚というものの不安定さというものを知らなければなりません。


北白川 スー

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Wrote up on October 15, 2005.