クリスチャンと未信者のすれ違い



クリスチャンと未信者との結婚というテーマで書き続けていますと、
意外なところに行き違いや、認識の食い違いが起きており、
いたるところにすれ違いがあることに気付かされます。

その違いはどこから来ているのか考えさせられるとき、
しごく当然なのですが、
キリスト信仰があるか無いかの違いから来ていることがよく分かります。

ではそのキリスト信仰というものはどこから来ているのでしょうか。
日本のように、
人口の1パーセントにも満たないクリスチャンにとっては、特に際だっているのかもしれません。
キリスト教に信仰するというのではなく。
なぜ、キリスト・イエスという信仰の対象を持つに至ったのでしょうか。

ことわざに、「苦しいときの神だのみ」というのがあります。
何をするにも、利益や効果があるかどうかを先ず考えるというような自己中心的なな人、
身勝手な人が、苦しいことに行き当たったとき、不利益になりそうな局面に立たされたときに、
何が何でも利益を効果を期待しようと、我がものにしようと神仏に願い求めるさまを言います。

しかし、キリスト信仰というものは、そのようなものではありません。
それは、何かの出来事がきっかけで、心から自信を失い、自分の能力の限界というものを知り、
そのことによって人生の深かみを味わったからなのです。
さらに、人生の深かみを味わったとき、何か至高の存在というものに出会ったのです。
それは予期せぬ出来事であり、自分の知識や能力をはるかに越えた存在との出会いでもあったのです。

困難に出会ったとき、自分の能力や知識をはるかに越えた存在によって、
その困難な出来事の裏に隠されていた意味を見いだしたのです。

ですから、それはまさしく大きな驚きです。
今までの自分の人生や生き方を変えざるを得ない体験だったのです。
その出来事によって、自分の本当の姿というものを、本当の本性というものを見せつけられたのです。

それは、変わらざるを得ない驚きの出来事です。
すなわち、イエス・キリストなる神が、自分のことを心にとどめておられて、
あなたには、すべきことが待っていると語られたからなのです。

大抵のクリスチャンは、そのような経験をしています。
ですから、そのような体験をしていない人にとっては理解しがたいことなのです。

「神は、どのような苦しみのときにも、わたしたちをなぐさめてくださいます。
こうして、わたしたちも、自分自身が神から受けるなぐさめによって、
どのような苦しみの中にいる人をなぐさめることができるのです。
それは、わたしたちにキリストの苦難があふれているように、
なぐさめもまたキリストによってあふれているからです。」

(新約聖書・コリント人への第二の手紙・1章4〜5節・新改訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on February 23, 2005.