ついこのあいだまで学生だったと思っていたら、いつの間にか30を過ぎ
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ついこのあいだまで学生だったと思っていたら、いつの間にか30を過ぎ、
40が視野に入ってきてしまった。
過去を振り返ってみれば、
自分の人生に情熱をもって取り組もうとしていた時代に、
果敢な時代に、当然にして色々と問題に遭遇したわけで、
それが直接的な原因でないにしても、
その時代にキリストに出会ってクリスチャンになったわけです・・・・。
今は、職場ではそこそこ責任ある仕事もし、資格も得て信頼もされている・・・・・。
しかし、最近のキーワードは「結婚」の二文字につきる・・・・。
それが幸せのすべてではないにしても、
自分のまわりでは当然にして話題にこと欠かないのだから。
しっかりした信仰を持っていて、価値観を共有できる人と結婚したいと思っている。
当然にしてお相手はクリスチャンでなければならない・・・。
しかし、まわりを見わたせば、彼はどこに居るのやら・・・。
30代半ばともなれば、相手も限られてくるのだから。
まわりのクリスチャン男性といえば、
生温いはっきりしない頼りのない信仰の持ち主ばかりが目について・・・。
実際、日本の教会では女性信徒の比率のほうがまさっている。
その中で結婚相手を見つけなさいと言われたら、
それはそれは難しい課題なのだ。
いま流行の年下の彼を見つけるとなれば、それは絶望的すぎる。
結婚が幸せのゴールだとは思わないけれど、
何か疑問が残ってしかたがない。
・・出会いのない教会、出会いがなければ、愛の告白の言葉もない・・・。
日本の教会は、男女比や年齢にしても、職業や、階級や階層にしても、
なぜ、平均的な構成にならないのだろうか。
かたよっているように見える、それが現実です。
女性信徒が圧倒的に多く、男性信徒はまことに少ない。
なぜ日本の福音宣教は女性にかたよってしまったのだろうか。
キリスト・イエスは、すべての人のために死なれたのではないのか。
神の救済計画というものは、人を選ばないはずである。
すべての人間の人生の中に、
人となられた「主イエス」を迎え入れることではないのか。
難しく言えば、自分の価値の源泉を、
キリスト・イエスに見いだすことではないのか。
聖書は、自分の思うとおりに答を得よとは教えてはいない。
むしろ、心を尽くして思いを尽くして神に信頼せよと教えている。
世の男性よ、その意味が分かりますか?・・・・。
それは、神にたいする深い個人的な信頼のなのです。
キリストへの信仰が、人生のすべてものの土台になっていることなのです。
日本では、なぜかそういうものを恥と見なす風潮があります。
好ましくないと受け取られるのです。
なぜなのでしょうか。
権威をもって確固たる地位を築いてきた聖書的な価値観をです。
人間は皆、罪人であること、そうであるがゆえに、
キリスト・イエスは神なのです。
罪人だからこそ神への信頼が生まれてくるのです。
このことすら、一般の日本人へは正確に伝わってはいないだろう。
日本の男性なら、人間みな罪人だとは決して信じないはずだ。
人間として未熟なところがあること、
すなわち「恥」こそ、恥ずべきものなのだから。
だから、決して信じようとはしない・・・。
・・・イエスは答えられた。
「聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。
心を尽くし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、
主なるあなたの神を愛せよ。」
(新約聖書・マルコによる福音書・12章30節・口語訳聖書)
男性たちよ、もっとじっくりと自分を見直しなさい。
そうであってこそ、キリスト・イエスが救い主であることが分かるはずだ。
人間として生きるとはどういうことなのか・・・・。
自分の可能性を活かしていくにはどうすればいいのか・・・。
自分を成長させるのは何なのか・・・。
なぜ信頼できるものを得ようとはしないのか。
北白川 スー
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Wrote up on July 05, 2008.